白と黒の宴3 6 - 10
(6)
緒方はタオルを放り出すとアキラの向いにベッドの上に座り、壁に背中を持たせかけた。
「ムースを手にとって…塗ってください。」
まだ剃刀を腕に当てた姿勢のままのアキラに指示され、緒方は言われる通りにした。
アキラはそんな緒方の様子を見ながら緒方の体を無意識のうちに観察していた。
明るい光の下で緒方の裸体を眺めるのは初めてかもしれないと思った。
今までとてもそんな余裕はなかった。
緒方も体毛がそんなに多くなかった。毛根が少ないタイプらしく、すねの毛も
まばらで髪の毛と同じように茶色がかった目だたないものだった。腕のは金色に近い。
アキラの方に向かって投げ出されている足は膝から下がすらりと長く、
長身に見合ったバランスの良い肩幅と骨格に理想的な筋肉が張り付いている。
女に不自由する事は決してないだろうし、何かのレセプションの会場で見かけた事がある
緒方の恋人らしき女性はそういう事にまだあまり関心がないアキラから見ても、
とても魅力的で美しい人だったと記憶している。
そんな緒方が、なぜ、自分の事を、とアキラは思う。
それは社に対しても思う。
「…これでいいかい。お手柔らかに頼むよ。サウナにも行けなくなる。」
「…全て剃るつもりはありません。」
緒方と同様に、アキラは左手で緒方自身をそっと持ち上げると、右側の周囲から
刃を当てた。慣れない手付きで慎重に動かす。そういう処理の時は先に毛足をハサミで
短くする必要がある事などアキラは知らなかったし、緒方も何も言わなかった。
(7)
片膝を立てた緒方の両足の間に屈み込むようにしてアキラは剃刀を動かす。
切れ味が相当良く、勢いが余ると皮膚を切りそうで、アキラは左手を緒方自身から離し、
毛先を摘むようにして根元近くで一度短く切り、もう一度当てて剃る事にした。
自分でも馬鹿バカしい事をしていると思ったが、ただ緒方や社に
したいだけにされている事が悔しくて反発したかったのかもしれない。
右側をそうして少しばかり周囲をそり落とすと、今度は左側を始めた。
無気味なくらい緒方は黙ったままじっとしている。
特にスポーツをしていたとか、そういう話は聞いた事はなかったが、緒方の下腹部は
筋肉で固く引き締まり皮膚に張りがあった。
そして何より、その中央に雄々しく存在を主張する分身を持っていた。
その部分を目の当たりにするのもアキラは初めてだった。
これだけの質量を何度も自分の体が受け入れ飲み込まされて来た事が信じられなかった。
当然その都度、激しい苦痛を伴い、行為後も長く違和感に悩まされし体調も狂う。
その苦しみの一部分でも緒方にも負わせられたら。
「…つっ…!」
一瞬、アキラは微かに緒方が漏らした声の意味が分からなかった。
決して故意ではなかった。だが、考え事をしていたために毛足に刃が滑り、
左側の腹部の皮膚の上を掠めたのだ。
赤い線が走ったように見えたかと思うと、周辺の白いムースが朱に染まっていった。
(8)
「ご…ごめんなさい!」
アキラは青くなって一瞬どうすべきか分からず固まってしまった。
「いい。自業自得だ。…剃刀を返しなさい。」
緒方はアキラから剃刀の柄を受け取りサイドボードに置くと、自分で片手を伸ばして
ティッシュを取り、傷を押さえた。
アキラはそのサイドボードの上に緒方が持って来たタオルがあるのを見つけ、それで
他の泡の部分を拭き取った。
「たいした傷じゃない。」
青ざめた顔のアキラの手首を持って自分の体から離すと緒方はベッドから下りて
部屋から出て行った。アキラも後を追うと、緒方は洗面所でもう一度タオルを
湯で濡らして絞っていた。
そしてアキラの方に振り返ると屈み、アキラの下腹部を拭いた。
立ち上がった緒方のその傷からはまだ僅かに血が滲み出していた。
「傷薬はどこに…」
「早く服を着て出なさい。手合いに遅れてしまうぞ。」
緒方にぴしゃりとそう言われてしまい、アキラはもう何も言えなくなった。
アキラが支度を始めると緒方も傷口に何か絆創膏のようなものを張り、下を履いた。
「それじゃあ、緒方さん…。」
「ああ。」
玄関に立つアキラと緒方は一瞬互いの目を見合った。
「アキラくん、」
静かな緒方の口調にアキラは表情を強張らせた。何か予感があった。
(9)
「…もうここには来ない方がいい。オレは…大丈夫だ。」
「緒方さん…」
「もう来るな。」
棋院会館に向かう地下鉄の電車の中で、アキラは漠然と窓ガラスに映る
乗客や自分の姿を見つめていた。
解放されたのだ。お互いに。緒方も自分も。
何をどう繕った言い方をしても中身は変わらない。
自分の心はあの場所にはない。あるとすればそれは、緒方を傷つけるのみの
同情心だけだ。それはお互いに分かっていた。
棋院会館に着き、手合い室に向かう。
今日はダメかもしれない。
相手を見ないうちからそう思った。そういうのは初めてだった。
気落ちしているつもりも自己嫌悪感に陥っているつもりもなかったが、意識が浮遊して
気持ちがまとまらない。
何かとても大切な事があって、自分はそれを忘れている。取り戻しに行かないと、と思う。
だけどそれが何でどこにその場所があるのかわからないのだ。
殆どの人達が所定の場所で静かに座して対局開始の時間を待っていた。
遅れ気味だったアキラだったが、相手もまだ来ていなかった。
整理出来ない意識のままぼんやりと待った。
惨めに負けても良かった。今の自分は一度そういう目に遭った方がいいのだろう。
(10)
だがアキラの対戦相手は来なかった。
急に体調を崩したりしたか何かか、結局アキラの不戦勝となった。
気が抜けると同時にひどく疲れたような気がして階段脇の自販機の場所で一息ついた。
冷たいお茶の缶を買ったが、飲むためでなく額に当てるためだった。
そうして壁にもたれかかっていると気分が落ち着いて来た。
院生ではなかったが、建物が持つ空気というか、棋士としての高みを目指す者たちの
息遣いを感じるこの空間が肌に馴染む。
少しずつアキラは自分を取り戻しつつあった。
それと同時に、怖れおののく程に手強い相手との対局に自分は飢えているのだと思った。
少しでも気を緩めれば一気に追い詰められ自尊心をも粉々に打ち砕かれるような、
そんな相手と、打ちたい。
ふと、父行洋から聞いた高永夏を始めとする異国の棋士達の事が頭に浮かんだ。
日本より囲碁が盛んな国の若手のトップに立つ者達。
とりあえず自分が考えなければならない事は北斗杯の事だ。
「良かった、塔矢。まだ居たんだ。」
ふいに耳に入って来たその声の主にアキラは振り向き、ホッとしたように笑んだ。
「進藤…、…居たのか。」
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