Duran Duran History - 1984
いよいよ私が生でDuran Duranを体験するときが近づいてきました。
しかし来日直前にショッキングなニュースが…。
メンバーの中で結婚も婚約も発表していなかったジョンが突如婚約を発表!
相手は確かジェナインだったかな?レネエだったかな? 後にこの婚約は解消されましたが、当時はホントにショックでした。
この年はスゴク寒かったはずです。 初めての武道館公演では雪が降ったと記憶してます。
この来日時は『夜のヒットスタジオ』(懐かしいなぁ。)に出演してクチパクではありましたが“Union
of the Snake”を演奏しました。
この時、外タレ・ミュージシャンにはお決まりの
「日本語は何か覚えましたか?」
の質問にメンバー達は
「サイモンさん」、「ニックさん」、「アンディさん」、「ロジャーさん」、「ジョンさん」
とお互いを「さん付け」で呼び合うことしか言いませんでしたが、最後にサイモンが通訳(有名な女性の田中さん)を通して一言日本で喋りたいと伝えました。
で、サイモンは言いました。
「コンヤ、ドウ?」
これを聞いた私はテレビの前で倒れました。
同時に
「コイツは何ていう日本語を覚えたんだぁ。 教えたのは誰!?」
と思ったものでした。
さて、いよいよライヴです。
私は名古屋に住んでまして、当日、学校の修学旅行から帰ってくる日でした。
夕方、名古屋駅に着くや否や私服に着替えて急いで会場に向かいました。
名古屋での開場は名古屋国際展示場という所です。
本来の使用目的ではない場所で行われるライヴで、音は大丈夫なんだろうか?という心配もありました。
が、この会場は前の年に来日したデヴィッド・ボウイのライヴでも使用した実績もあったから大丈夫だろうと思っていました。
やはり実際に音は悪かったです。床はコンクリートで底冷えはするし…。 後にミック・ジャガーやジョージ・ハリスン、エリック・クラプトンも演奏したんだけど。
この頃から収客能力が高い会場でライヴを行う傾向があって、最近では音楽目的以外で造られた会場での演奏を嫌うミュージシャンもいるそうです。
名古屋駅から地下鉄とタクシーを乗り継いで会場に着きました。
座席は51列目のややジョンの方に寄った場所でした。 しかし遠い!
でも同じ空気を共有できるからイイや。
暫くすると会場が暗くなりテープで“Tiger Tiger”が流れました。
「お正月は“Tiger Tiger”、“The Seventh Stranger”を聴きながら伊勢神宮で初日の出を拝んだなぁ〜。」
と思いつつ、
“Tiger Tiger”が終わると「プリーズ、プリーズ、テル・ミー、ナ〜ウ、プリーズ、プリーズ、テル・ミー、ナ〜ウ」のコーラスでライヴはスタート!
このライヴの時はステージに幕があったんですよ。
で、音が流れるとその幕が左右に開いていき、ステージ中央にサイモンとアンディが1本のマイクでハモッていたんです。
私もここ数年ライヴには行ってないんですがこんな感じで幕が開いてスタートしたライヴは二度ぐらいしか経験してません。
ステージはパルテノン神殿をイメージした柱が後方に6本くらい立っているセットです。
ライヴ自体は最初から“Hungry
Like the Wolf”や“Union of the Snake”のヒット・シングルや“The
Reflex”などのこれからヒットするであろう曲で畳み込まれました。
ステージ上にはバンドメンバー5人にパーカッション、サックス、それに女性バック・コーラス2人を加えての合計9人の大所帯でした。
ライヴ中盤にニュー・アルバムからの、このツアーでしか演奏しないであろう曲(今思えば)を挟み、
スロー・テンポの“Save a Prayer”、“The Chauffeur”などを演奏し終えてからは
この日まだ演奏されていないヒット・シングル“Planet
Earth”、“Girls on Film”、“Rio”などで締めくくりました。
次の日、学校は休みだったのでお昼に名古屋駅まで行ってDuran Duranを見送りに行けば良かったなと思いますが、
極度の疲れで目が覚めたのがお昼過ぎだったんです。
日本を離れたDuran Duranは一度フランスへ寄ってシングル“New
Moon on Monday”のビデオ撮影を済ませてアメリカでこのツアーを再スタートさせました。
当時は“New Moon on Monday”のビデオは来日前にもう撮影が済んでいたものだと思っていましたが実際は違ったんですね。
あの頃は『Best Hit USA』や『Tokio Rock TV』、『SONY
Music TV』って名古屋でもいっぱい番組が観られたのですが…。
ちょっと前に『Best Hit USA』は局が違いますが復活しました。
アメリカでのツアーの規模は史上最大で
79日間を費やし、43都市で、全51回のライヴをこなし、観客動員数は延べ55万4千人。
でも不思議な事に、このアメリカ・ツアーは会場が全てアリーナ・クラスの会場なんですよ。
この頃、Duran
Duranのアメリカでの人気を考えたらスタジアム・クラスの会場でライブが出来たはずなんです。
では何故、アリーナでライヴを演ったのか?
このワールド・ツアーが始る時にライヴをレコーディングして、ツアー終了後にライヴ・アルバム、ライヴ・ビデオとしてリリースする事が決定していたんです。
そのアルバムは『Arena』という風にタイトルまで決定していたんです。 だからアリーナ・クラスの会場でしかライヴをしなかったんです。
アメリカ・ツアーの終了間際にリリースしたシングル“The
Reflex”がビルボードチャート1位を獲得。
7月には日本で出演したウィスキーのテレビCFがオンエアされました。 お茶の間にもDuran Duranっていう感じでした。
世界的に見てもDuran Duranの人気はピークに達しました。
このツアーの詳しい様子はドキュメンタリー・ビデオ『Sing
Blue Silver』を観ていただくと解りますが、決して楽しいことばかりではなかったようです。
特にロジャーの疲労の様子は普通ではありませんでした。
そんな感じでDuran Duran史上最大のワールド・ツアーはアメリカで幕を閉じました。 (ヨーロッパはこの時のツアーで廻ってないんだよね。)
イギリスに戻ったメンバーはライヴ・ビデオ『Arena』のためのライヴを地元バーミンガムのファン数千人を集めてで行いました。
これはステージの後方に居るニックとロジャーのライヴ・カットが少ないために実際に観客を入れてライヴを行い、足りないカットを撮るための物でした。
続けて秋にリリース予定のニュー・シングル“The
Wild Boys”をナイル・ロジャースのプロデュースでレコーディング。
レコーディングやビデオ撮影が一段落ついた所でロジャーがジョヴァンナと、ニックがジュリーアンと相次いで結婚!
私は別にジョンが結婚したわけではないので冷静に喜んでました。
そのジョンは極秘(でもないか。)に、あるプロジェクトを始動させていました。
ジョンはアルバム『Seven and the Ragged Tiger』の仕上がりに好意的ではありませんでした。 もっとハードでタイトな感じにしたかったようです。
そこでアルバム『Seven and the Ragged Tiger』で表現できなかったサウンドを実現させようと思いプロジェクトを始動させたようです
このプロジェクトのメンバーにはジョンと同じ不満を抱いていたアンディも参加する事になります。
ジョン曰く
「アンディを檻から出してやった。」
そうです。
そしてヴォーカリストには数年前にジョンとライヴの打ち上げで面識のあったロバート・パーマーに依頼。
残るドラムとプロデューサーにはナイル・ロジャースの居るバンドChicのトニー・トンプソンとバーナード・エドワーズにお願いする事でプロジェクト構想はまとまりました。
プロジェクトの名前の『Power Staion』は主にレコーディングで使用したニューヨークのスタジオの名前から取りました。
昔はBon Joviのジョン・ボン・ジョヴィがアルバイトしていた事でも有名なスタジオです。
10月にシングル“The Wild Boys”がリリースされました。今、聴くとそうでもないんだけど、最初、聴いた時はかなりハードな曲だなぁと思いました。
ギター・ソロはないけどアンディ大活躍って感じかな?
11月の終わりに突如『Band Aid』なるチャリティーがボブ・ゲルドフとミッジ・ユーロの呼びかけで集められました。
シングル“Do They Know It's Christmas ?”をリリース。 さすがイギリス、チャート初登場1位でした。
このレコードには参加したミュージシャンのメッセージも収録されて、ジョンとサイモンのメッセージが聴けます。
このBand Aidが原因でU2は政治に興味を持っちゃったらしいけどDuran Duranはそんな風にならなくて良かったと思っています。