誘惑 第二部 1 - 4


(1)
週刊碁の対局予定表のある一箇所に目が吸い寄せられた。
「塔矢アキラ」。それだけの文字。
今度の水曜、ヒカルも対局がある、その同じ日に同じ場所でアキラも対局がある。
ヒカルの目はそこで止まったまま、動かなかった。
もうどれほどアキラの顔を見ていないだろう。
それがやっと会える。
けれど、そう思った瞬間、嬉しいと思う気持ちよりも、会うのが怖いという恐怖が、ヒカルを襲った。
会いたい。けれどそれ以上に会うのが怖い。

もしも昔のように無視されたら。
何度も、何度も、声をかけようとして、けれどそれを一方的に断ち切られるように無視された、その
記憶がよみがえる。中学囲碁大会で負けた後。院生になった時。プロになった時。そして初めて
アキラへの気持ちを意識したばかりの時。
けれど、無視される方が、まだマシなのかもしれないと、思った。
自分から視線は断ち切りながら、それでもアキラの意識は痛いほど自分の方を向いていたのだと、
今ならわかる。
けれどもしも、もしも何もなかったように、ヒカルの存在など忘れたように、気付きもしないで通り過ぎ
られてしまったら。碁会所やイベントでの客や、顔見知り程度の棋士、棋院関係者といった、アキラ
にとっては名前も意識していないような人に向けるような、一種、事務的な、あの穏やかな微笑みを
向けられたら。
ぶるっと身体が震え、ヒカルは思わず自分の両腕を掴んだ。
塔矢が怖い。
あいつに会うのが怖い。
こんなに誰かが怖いと思ったのは初めだ。
いっそ顔を合わさないように逃げ出してしまいたい。
けれど逃げ出すわけにはいかないし、プロ棋士として、そんな事が出来るはずもなかった。


(2)
怖くて、行かなきゃいけないのに、行きたくなくて、ぐずぐずしている内に、棋院についたのは対局
開始のギリギリ前の時間だった。
慌てて対局場に入ったとき、探していたわけでもないのに、ヒカルの目はすぐにアキラの姿を見つけ
てしまった。アキラは碁盤を前に、目を閉じて静かに座っている。
その姿に吸い寄せられるように、ヒカルは目が離せなかった。
少し俯き加減に、対局を前に精神集中するように目をつぶっている。ほんの少しだけ、いつもよりも
背中が緊張しているように見えた。表情が険しいような気がした。
でもそれは、普段と同じであって欲しくないと思う自分の願望のせいかもしれないとも、思った。
息を潜めながらアキラを見ていると、後ろから来た人に小突かれて、慌てて自分の席に座った。
アキラが顔を上げてヒカルを見ることはなかった。声をかける隙など、あるはずがなかった。
昼の休憩時間も、時間が告げられるとすぐアキラは立ち上がって足早に部屋を出て行き、一瞬遅れ
たヒカルはその後姿しか捕まえられなかった。
ヒカルが対局を終えてやっと顔を上げると、アキラの対局は既に終わっていて、アキラの姿はとっくに
そこにはなかった。自分の対局に集中していたヒカルには、アキラが帰ったことさえ、気付かなかった。
今度は後姿さえ、捕まえられなかった。
やっと会える、そう思って、期待と緊張と恐怖で、足が震えるほどだったのに、今日一日でヒカルが見る
ことが出来たのは、碁盤の前に目を閉じて座っている斜め後姿と、振り返りもしないで歩き去る後姿と、
そしてもういなくなってしまった、不在の空席だけだった。
意図的に避けられているのか、そうでないのかさえ、わからなかった。


(3)
進藤がまだ来ない。それがなぜこんなに苛つくのだろう、と思いながら、和谷はまた入り口を見た。
そして、対局室の中に目を戻し、碁盤を前に座っているアキラを見た。
いつものように目を閉じて座っているアキラの横顔が無性に苛ついた。静かに目を伏せている、
その顎を掴まえて無理矢理こちらを向かせて、乱暴に唇を奪ってやりたい、そんな衝動に駆られ
た。いつもそうやって取り澄ましてみせる、おまえの本性はそんなものじゃないだろう、と、掴みか
かって、静謐にさえ見える仮面を引き剥がしてやりたかった。
だがこんな所でそんな事を出来るはずがなかった。
そろそろ時間だ、そう思って控え室から対局室に入り、自分の席に座る。自分の席は、一組挟んで
アキラと向かい合う位置だった。せめて目に入らない位置なら気にせずに済むものを、席順までが
忌々しい。そう思った。
ふと顔を上げると入り口にヒカルが立っていた。ヒカルは立ち竦んだまま、アキラを見ていた。なぜ
今更、こいつはこんな風に塔矢を見るんだろう、しかもきっと進藤の目には塔矢しか映っておらず、
ここに、仲違いしたままの自分がいる事なんて、これっぽっちも気付いていない。そう思うと悔しくて
苛立たしくて、和谷はヒカルを睨みつけて奥歯を噛み締めた。対局相手が訝しげに自分を見ている
事など、気付いていなかった。

打ち掛けになり、自分の碁盤から目を上げて控え室に行こうとした和谷の目に、ふと、呆然として立
ち尽くしているヒカルの姿が入った。辺りを見回すと、アキラの姿はどこにもなかった。
何をしているんだ、あいつらは。そう思いながら、しかし、頭を振って無理矢理二人の事を思考から
追い出そうとする。オレにはあいつらは関係ねぇ。気にするな。
そうは思ってもむしゃくしゃする。いつもは旨く感じるはずのカツ丼がなんだかぼそぼそして全然味
がないような気がした。


(4)
午前中から形勢はあまり良くないと思っていたが、午後になって更に悪いような気がした。明らかに
自分は集中力が欠けている。理由はわかりきっている。気にしちゃいけない、そう思うのに、つい、
視線は盤上を離れて斜め向かいに座るアキラの顔を捉えてしまう。今までオレの知っている「塔矢
アキラ」はあれだけだった。それなのに。
こんな事を考えている場合ではない、そう思いながらも、意識は目の前の勝負を離れて、あの日の
アキラを思い出してしまう。対局中だというのに、こんなに心を乱す自分が、情けなかった。自分の
心を乱すアキラが憎かった。
何とか意識を集中させようと歯を食いしばる和谷の耳に、アキラの対局相手の投了の声が届いた。
和谷は内心悲鳴を上げながらも、アキラの終局に安堵した。早く行ってくれ。オレの視界から早く消
えてくれ。時計の音がやけに大きく響くような気がする。自分に冷静さが全くないことはわかりきって
いた。目の前の勝負が既に答えが出てしまっている事もわかっていた。それでも尚、何かに抗うよう
に石を置いた。これ以上手を進めても逆転できるとは、自分でも思えなかった。ぎゅっと目を瞑った
和谷は、それでも、アキラが立ち上がり、部屋を出て行く気配を感じてしまった。小さく頭を振り、意識
を取り戻そうとする。そして両拳をぐっと握り締めてかっと目を開いた。目に入ったのは、乱れた自分
の石の並び。こんな情けない碁を打っていたのか、オレは。
「ありません。」
小さく呟いて顔を落とした。
ジャラジャラと石を碁笥に戻し、立ち上がって帰ろうとした。すると、昼食時と同じように突っ立って、
蒼い顔をしているヒカルの姿が、また、目に入ってしまった。視線の先は、先ほどまでアキラがいた
筈の席だった。
何なんだ?何があったんだ、こいつらは。
いや、何もない、はずがないか。ヒカルとの諍いを思い出して、和谷は皮肉な笑みを頬に浮かべた。
ふん、ざまあみろ、そう思いながらもう一度ヒカルを見て、更に和谷の顔が歪んだ。まるで世界中か
ら見捨てられてしまった、と言いたげな、今にも泣き出しそうな顔をしていた。



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