誘惑 第二部 36 - 40


(36)
ふいに涙があふれそうになって、アキラは慌てた。
「ねえ、芦原さん、ボクは…どうしたらいいのかな……芦原さんは…今まで、どうしてたんですか?」
「おい…アキラ…」
「…だって、」
急に酔いが回ってきたように感じる。
一体何してるんだろう、ボクは。お酒を飲んで、つまんない打ち明け話をして、愚痴を言ってこぼし
て、酔っ払って、ボクは…こんな、情けないヤツだったのか。知らなかったよ。
「おい、アキラ、大丈夫か…?」
声をかけられて、アキラは今にも泣き出しそうな顔で芦原を見上げた。
「芦原さん…」
大丈夫なんかじゃない、と、アキラは力弱く首を振った。
あんな事を言っていても、たまにこうやって年相応に可愛く見えるから、こいつも困ったもんだ。
そう思って芦原はアキラを見下ろした。
「飲みすぎだよ。いくらおまえがイケル口だっていったってさ、」
しょうがないなあ、という風に芦原はアキラの頭をそっと撫でた。
「もう帰ろう。帰ったほうがいい。」
会計を済ませて店を出ると、先に出ていたアキラは店の横のベンチに座って壁にもたれていた。
さっきの歩き方を見ても、かなり酔いが回っているようだ。珍しい、と芦原は思った。いつもはそんな隙
など見せた事もなく、誰よりも平気そうな顔をして強がっていたアキラが。だが芦原の目から見れば、
その強がりも子供らしい可愛さだったし(それでも自分より遥かに酒に強いという事実は小憎らしくもあっ
たが)、今日の本気で落ち込んでる風のアキラは更に可愛く、久しぶりに自分が相応に年上に感じられ
て、ちょっとだけいい気分だった。
まだまだ子供だよな、アキラも。そう思いながら、今にもそこに倒れかねない風情のアキラに声をかけた。
「ホラ、アキラ、行くぞ。大丈夫か?」
「ん……」
優しく自分の体を引き起こそうとする手が心地よくて、アキラは無意識に腕を伸ばして彼の首に絡め、
彼の唇に唇で触れようとした。


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相手の体が硬直しているのを感じて不審げに目を開け、相手が誰であるかに気付いて、アキラは息
を呑んだ。目を見開いたまま呆然とアキラを見下ろす芦原から、アキラはゆっくりと体を離した。
「ごめんなさい。」
さあっと血の気が引いていく音が聞こえるような気がした。一挙に酔いが覚めていくようだ。
一体、何しようとしてたんだ、ボクは。
芦原さんにまで…いくらなんでも、節操が無さ過ぎるにも程がある。
いや、そうじゃなくて。
この人とは、ずっと今のようないい友達でいたい。
この人まで、あんなぐちゃぐちゃに引きずり込みたくない。
バカ言うな。誰だって簡単に引きずりこめるとでも思うのか。思い上がるな。
そもそも、芦原さんがボクの誘いになんか、乗るわけがないじゃないか。バカな事を考えるな。
図々しいぞ。いくら一人で寂しいからって。
「ハハッ」
アキラは乾いた笑いを無理矢理に作った。
「さすがに、飲み過ぎたみたいだ。」
内心の動揺を隠して、笑いながら言った。芦原も引きつったような笑いを浮かべている。
「ハハ…ハ…飲みすぎだよな…うん、いくらおまえが強いって言っても、未成年なんだしさ、ハハ…」
そう。こうやって笑い事にしてしまえばいい。明日になれば忘れてるさ、こんな事。
きっとこの人なら忘れてくれる。気まずくなんてならずに済む。


(38)
まだ足元の覚束ないアキラを、送って行ってやろう、と言っても、彼が断固として聞き入れないので、
それなら、と無理矢理タクシーに押し込めた。
走り去るタクシーのテールランプを見ながら、芦原は深い溜息をついた。内心、送らずに済んだのは
良かったのかもしれない、と思いながら。

マズイ。マズかった。危なかった。
なんて事しやがるんだ、アキラの奴。誰と間違えてるんだ、一体。
だいたいおまえ、男のくせにそんなに色っぽいなんて、反則だぞ!
そう言えば前にもこんな事があった。あれはいつだっけ?確か風邪引いて寝込んだアキラを見舞い
に行ったらいつの間にか恋愛相談されて。そうだ。あん時も、弱ってフラフラしてるアキラを支えよう
とした時に、オレはくらくらしちまったんだ。
ダメだ。弱ってるアキラっていうのは、なんか、くる。ヤバイ。
普段は全然、そんな気になったりなんかしないのに。むしろ最近じゃオレの方が置いてかれてるよう
な気が…いや、そんな事は無い、はずだ。そうだよな。(そう、女の数なんか数えるんじゃない。問題
は人数じゃない。質だ。気持ちの問題だ。人数で勝ち負けが決まるわけじゃない。…んだが、くそぉ。
畜生。アキラのヤツ、いつの間に…!)
そう、可愛いもんじゃないか。失恋とかいって酔っ払ってあんなになるアキラってのもさ。
ま、例えば緒方さん相手にこんな話したって、からかわれるか後でいいネタにされるかくらいだもんな。
どうだ、緒方さん、悔しいだろう?アキラが恋愛相談してくるのはあんたじゃなくってオレなんだぜ?
それでも、相談相手にされるって事は、うーん、オレなんか安全牌って思われてるのか…?
って、何を考えてるんだ!オレは!!
安全牌も何も、アイツは男で、オレだって男なんだぞ!
いくらアイツにキスなんかされかけたからって…
あーーー!アキラのヤツ!!何を考えてるんだ、一体!!
…でも、まあ、あんな調子でよっかかれたら、つい、ふらふらしちゃうよなあ。


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え?「つい」?…『つい、やっちゃって…』ってのは……あいつの台詞だ。
だーっ!畜生。つい、やっちゃった気持ちがよくわかったよ!ばかやろう!!
あいつの事を、最近のガキは乱れてやがる、なんて言っておきながら、このオレの醜態は何だ?
ああ、もう、こんなくだらない事は考えるな。あいつはオレの――そう、弟。オレはあいつのお兄さん。
頼りにされるのは嬉しい。そうだ。可愛い弟がいつの間にやら知らないうちにオトコになってたのは驚いた
けど、まあ、喜ぶべき事だ。そう。祝福してやんなきゃいけないよな。いや、いまの状況は祝福なんかでき
るような状況じゃないか。そう、オレの至らなさなんてどうでもいい。問題はアキラだ。
そうだ。オレは言ってやりたかったんだ。それは、それならおまえ次第なんじゃないか、って。
言ってやりたかったんだ。
そんなに好きなのに、浮気の一回くらいで駄目になっちゃっていいのか、って。
その彼女だっておまえを好きなんだろうに。そりゃあ、おまえも彼女も辛いかもしれないけど、お互い
に好きなのに、そんなので駄目になっちゃうなんて、それでいいのかって。そんな事であきらめきれる
のか、って。嫌いになったわけじゃないのに、他に好きなヤツができたわけじゃないのに、別れられる
のか?忘れられるのか?
つまんない意地なんか張ってるなよ。おまえにとって一番大事なのは何なんだ?
そりゃあさ、おまえが許せないって気持ちもわかるよ。
でもさ、許せないのは彼女が好きだからだろ?
許せないって気持ちと、好きだって気持ちと、どっちが重いんだ?

でも…なあ、そこまで好きな相手がいるおまえが、ちょっと羨ましいよ。
おまえも、緒方さんもさ、どこでそこまで真剣になれるようなひとを見つけてきたんだ。
そりゃあ、失恋はつらいけどさ、何にもないオレが何だか淋しいよ。
ちぇ。つまんないな。オレには誰か、いないのかなあ…


(40)
会いたくない、信じられない、一方的に電話で言われて納得なんか出来るはずがなかった。
最初は呆然として、それから、怒りが沸いてきた。終わりにしよう、だって?こんなで終わらせられると
でも思ってるのか?
切られた電話にかけなおしてみても、返ってくるのは冷たい機械の声だけだった。けれどそれは半ば
予想していた事だったから、むしろ怒りをかきたてられるだけだった。会いたくないだって?会いにくる
なだって?そんな事、聞くもんか。キミがどう言おうと、ボクはキミから離れるつもりなんかない。そう
言って掴まえて怒鳴りつけてやりたくて、衝動的にアパートを飛び出た。

飛び乗った地下鉄の車内は、人があまり乗っていなくて、冷房が効きすぎていて、乗った瞬間、嫌な
感じがした。
あれは喧嘩の続きで衝動的に言った言葉なんだろうと思ってた。でも、もし、そうじゃなかったら?
もしも本当に門前払いされて、拒否されたら?
心のどこかに、ヒカルが絶対に自分を拒否するはずがないだろうと言う、根拠のない自信があった。
でも、本当に?
もしも、本気で拒否されたら?
急にゾクリと寒気を感じた。
両腕で自分の身体を抱いた。体温が急に下がったような気がした。
もしも、もしも本当に本気で拒否されたら。
嫌だ。そんなのは嫌だ。そんな事があるはずがない。
万一にでも、そんな事を考えてしまったら恐ろしくて、動く事が出来なくなってしまって、気付いたら降
りるはずの駅を通り過ぎてしまっていた。
怖い。進藤に会うのが怖い。
そう思ったら、もう会いには行けなくなってしまった。



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