誘惑 第二部 56 - 60


(56)
特に予定も無かったその日、ヒカルは午前中から書類を提出するついでに自分が参加する予定の
イベントの時間と場所を確認するために棋院に出向いた。
棋院の事務室に入ると、顔見知りの事務員が少し驚いたように、こう言った。
「あれ、進藤くん、見送りに行かなかったんだ?」
「え…?」
「今日、塔矢くん、出発だろ。塔矢門下とか後援会とかで成田まで見送りに行くって言ってたよ。
進藤くんは塔矢くんとも仲がいいみたいだから、てっきり行ってるかと思ったのに。」
知らなかった。
呆然としているヒカルに気付かずに事務員は続けた。
「しかし、塔矢アキラも派手だよねぇ。まだ若いのに。でもまあ、あの実績じゃあ当然かな。元名人の
後援会をそのまま引き継いでるようなもんなのかな。あの調子じゃ、勝って凱旋するような時にゃ、
お出迎えも相当ハデにやるんじゃないかなあ。」
「…どのくらい、向こうに行ってるんですか…?」
「そうだなあ…確か一週間くらいだったと思うけど…帰ってくるのは確か…」
そう言って他の人に声をかけてスケジュールを確認し、帰国の日をヒカルに告げた。
「進藤くんもさ、負けてんなよ、塔矢アキラに。オレはキミに期待してるんだぜ?」
「ハハ…アリガトウゴザイマス。」
それから後は手早く用事を済ませて、事務室を出た。
元々、足を運ぶほどの用事じゃなかったから、長居もしないで済んだ。
「そっか、塔矢の出発、今日だったのか…オレ、知らなかったな……」
ヒカルは小さな声で呟くように言った。
今日から一週間、塔矢は日本にいない。
もう一ヶ月近く会ってないんだから、顔を見たのだってこの間の一瞬だけで、だからそれに更に一週間、
確実に会えない日が足されたからって、何がどう変わるって訳じゃない。どうせ会えないんだから。
帰ってくる日なんか、確かめてどうしようって言うんだ。バカか、オレは。

棋院の玄関を出て、傘を広げようとし、ふと、相変わらず雨の降りやまない空を見上げた。
今日はこんな天気で、飛行機なんか見えるはずがない。
見えてたって、それがあいつが乗ってる飛行機かどうかなんて、わかるはず、ないのに。


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とぼとぼと家に帰ってきて、自室に戻ると、ヒカルはごろんとベッドに横になった。
仰向けになって天井を見ながら、ぼんやりと昔の事を思い出した。

北斗杯の時は、楽しかったな。
始まる前から塔矢んちで合宿したり、社や倉田さんもいたけど、ずっと一緒にいられた。合宿ん時は
ちょっとツラかった。塔矢も簡単に社泊めるなんて言うなよなって。でも泊まったのはあの部屋じゃな
くて塔矢の家で、なんだかほっとした。塔矢の家はさすがに元名人の家ってカンジの純和風の家で、
こんな家で塔矢が育ってたのかって思うと、なんだかカンドーした。
当日もあんなゴーカなホテルに泊まって、一緒の部屋じゃなかったのはホントは残念だったけど、
まあ、仕方がないよな。それにヘタに社なんかと同室だったりしたら余計に大変だもん。合宿の二の
舞だ。それにちょっとは人目を盗んでイケナイ事もしちゃったし。もし人が来たらどうしようって、ドキ
ドキしたけど。
時々、塔矢はすごく大胆だ。
思い出しただけで身体が熱くなる。
抱きしめる力強い腕。熱い身体。耳をくすぐる甘い囁き。
塔矢、おまえが好きだ。オレを見るおまえの熱い目が好きだ。オレを絡めとる甘いキスが好きだ。
オレを欲しがってるおまえが好きだ。おまえの全てが、なにもかもが好きだ。
ああ…塔矢……

ヒカルは一人、恍惚とした表情を浮かべた。知らず、甘い息が漏れる。
けれど現実は彼を打ちのめす。じわりと涙が浮かんでくる。

でも、塔矢は今ここにはいない。
きっと今頃は飛行機に乗って、海の向こうに行っちゃったんだ。
オレの事なんか忘れて。


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塔矢の唇。キレイな、形のいい、唇。柔らかい、甘い、唇。
アキラの唇の感触を思い出しながら、ヒカルは指で自分の唇をなぞった。
そして舌先でちろりと自分の指を舐めてみた。
それだけでは飽き足らず、そのまま自分の指を口に含んだ。口の中で指に舌を絡め舐め上げ
ながらその指で自分の口内を探る。アキラの熱い舌を思い出しながら自分の指を、口内を弄っ
ても記憶の中の感覚には追いつけない。もどかしくて自分の指を噛む。痛みが甘い痺れになっ
て背筋を走った。

自分の唾液に濡れた指で自分の首筋をそっと撫でる。記憶の中の柔らかな唇と濡れた舌の感触
を再現するように首筋から耳元を探る。けれど濡れた指先は冷たく、去って行った後はひんやりと
した空虚さが残るだけだった。虚しさを埋めようとヒカルはもう一方の手をTシャツの中に潜り込ま
せて、自分で自分の胸元を撫でさする。震える指先が胸の突起をかすめる。びくっと身体が震え
る。それからそっと、自分の指でそこをつまんでみた。
「んっ……」


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オレを前にしてあいつは豹変する。目も口も、表情も、白く長い指も、外にいる時のすました顔から
は信じられないくらいに。いつもは鋭く厳しい目は濡れて黒く光り、艶やかな唇は更に紅く、頬に
薄っすらと血が上り、うっとりとしたような、けれどオレを食い尽くすような表情でオレを見る。
あいつの唇はオレの身体の上でオレの中の熱を煽るようにイヤらしく動き、あんなキレイな形から
は信じられないほどイヤらしい音を立て、オレの耳元でとんでもなくイヤらしい言葉を囁いて、オレ
を弄る。

―ふふっ…
笑い声が、聞こえたような気がした。
―とんでもなくイヤらしい事って、ボクが何を言ったの?言ってみてよ?
「や…そんなの……言えない…」
―イヤらしいのはキミの方だろう?ホラ…
「あ…ああ……塔…矢…」
思わずヒカルの口から息が漏れ、想像の中で自分を弄る指の持ち主を呼ぶ。
するとヒカルの耳に熱い囁き声が届く。
―進藤……もっと、キミの声を…聞かせて……
「ああっ…あ…やだっ……ぁ…」
呼吸が浅く、荒くなる。
片手で乳首を弄り続けながら、もう片方の手で、ジッパーを下ろし、キツイほどジーパンを押し上
げていた自分自身を解放する。
熱くそそり立つそれは、既に懇願の涙を流し始めている。
―ほら、やっぱりイヤらしいのはキミの方じゃないか…?
クスクス笑うような声が聞こえ、更にヒカルの零す涙を弄る音が聞こえる。
―どうして欲しいのか言ってみて…?
「い、言えない…」
―言ってくれなきゃわかんないよ…?
けれど言わなくとも手は望むように意思のままに動いて、ヒカルの身体の中心に熱を集め、滾らせる。
耳元で熱い息が自分の名を呼ぶのが聞こえるような気がして、ヒカルは夢中でアキラの名を呼んだ。
「塔矢、塔矢、塔矢…」


(60)
「はあっ、はあっ…はあっ……」
手の中に放出して荒い息をつき、何かをこらえるように片手をくっと胸元で握り締めた。それなのに、
それでもこらえきれずにピクリともう片方の手が動く。恐る恐るゆっくりと動き出した手は、余韻に震
える分身をそろりと撫でてから更にその後方を目指して這う。震える指が入り口をかすめ、びくんと
身を震わせてから、もう一度自らの指で、そろり、と、入り口周辺を探ると、背筋がざわめく。
「ああ…」
涙交じりの息を漏らしながら、指はじりじりと中を目指して動く。
躊躇いと欲望の狭間で、指は前から後へ動いてはまた前に戻り、震えながら中に押し入ってはまた
怯えたように戻る。
「あ……や…だ…」
眉は切なく顰められ、きつく閉じられた眦には涙が滲む。
けれどその涙を吸い取ってくれる唇は降りてこない。
「やぁ……」
もどかしい指の動きに、焦らさないで、と、声に出さずに訴える。
その声に応えるように、もはや戸惑いを捨てた指が侵入してくる。
こんな感じだった。アイツの中も。アキラを思い出しながらヒカルの指は熱く絡みつく自らの内部を探り、
ヒカルはアキラの指に犯される快感を味わう。
自分の声が、自分の指に応えるアキラの声に重なる。
自分が犯しているのか犯されているのかわからなくなる。
それでも、何かが足りなくて、もどかしい。もどかしさが更に指の動きを荒々しく増幅させ、それに応える
声が高くなる。
「助けて…」
自分がどうしてしまったのかわからなくて、切ない声で助けを呼ぶ。応える人もいないのに。
「助けて…塔矢……」



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