誘惑 第二部 11 - 15


(11)
「進藤、」
碁会所を出てきた所にいきなり声をかけらるて、ヒカルは一瞬言葉を失ったようだった。
だがすぐに普通の顔に戻って応えた。
「なんだよ、和谷。」
どこかに入らないか、そう言って強引に駅前のファーストフードに誘った。
「あのさ…オレ…」
「和谷、もうオレとは口きいてくれないかと思ってた。」
くすっと笑ってヒカルが応えた。それは以前と変わらない無邪気な笑顔だった。
そんな笑顔を見せられたら、ヒカルを傷つけてやろうなんて考えは、あっという間に、和谷の中から
どこかへ行ってしまった。
やっぱりオレはこいつにかなわない。
自分が情けなくて泣きそうな気分になってしまった。
「オレの事…怒ってないのか…」
「なんで?」
「塔矢と…」
言い澱んで、俯いて、小さな声で言った。
「ケンカしただろ。オレのせいだろ?」
「違うよ。和谷のせいじゃない。」
きっと、気にするな、と言ってるんだろうに、オマエなんか関係ない、と言われてしまったように感じる
のはやっぱり自分がひねくれてるからなんだろうか。
「オレ、悪かったって思ってる。ゴメン、進藤。」
「和谷のせいじゃないよ。」
ヒカルはもう一度そう言って、寂しそうに笑った。
今更謝って許してもらおうなんて、ムシが良すぎる。和谷はそう思った。
こいつに甘えて許してもらおうなんて。こいつの、恋人―?―に、オレが何をしたのか、こいつに何を
言ったのか。そして、声をかけるまで、オレがどんな下衆な事を考えてたか。
それなのにコイツは前と変わらずにオレに接してくれる。
以前と変わらない無邪気さでオレを許してくれる。
こんな…こんなヤツだから、塔矢もコイツを好きになったんだろうか。


(12)
「おまえ…塔矢とはどうなってるんだ。おまえと塔矢とはどんな関係なんだ。」
ヒカルは寂しそうな顔で笑って、それから俯いて小さく首を振った。
それから、ぽつりぽつりと話しはじめた。
「オレさ……オレ、塔矢に会ってなかったら、きっと碁なんてやってなかった。」
碁石に触ったのは佐為を宥めるためだった。佐為のご機嫌取りだった。
でも、塔矢に会わなかったら、オレはこんなに碁に真剣に、夢中にはならなかっただろう。
「…あいつに会って、あいつの真剣さにのまれて、あいつの目をオレに向けさせるために碁を始めて、
あいつと戦うためにオレはプロになった。だから、オレの人生を決めたのは塔矢なんだ。」

「たまたま、何でかオレと塔矢はあんな事になったけど……今は…もう違うけど……でも、もしそう
じゃなくても、例えばあいつに別の誰かがいても、オレが普通にどっかの女の子と付き合ったりして
たとしても、それでもオレの一番は塔矢で、オレには塔矢以上のヤツなんていなかったと思う。」

「いつだって、オレの特別な相手は塔矢なんだ。塔矢は…塔矢が、オレの運命なんだ。」
そんなヒカルの声に、表情に、和谷は飲み込まれそうになった。
「でもさ、」
そう言って、ヒカルは和谷を見た。いきなり視線があって、和谷はぎくりとした。
「もし塔矢がオレに会わなかったら…あいつがどうしてたかって考えるとさ、きっと、あいつは変わん
ない気がするんだ。別にオレがいてもいなくてもあいつはプロになってただろうし、オレ以外にもオレ
以上の碁打ちなんて一杯いるし、」
そこまで言って、ヒカルは声を詰まらせた。
「オレの特別は塔矢だけど、塔矢の特別はオレじゃないんだよ…」


(13)
「和谷さ、あいつの事、どう思ってるんだ。どうして…どうしてあいつを抱いたんだ。」
「…わかんねぇ…」
「おまえが言うように…前に塔矢がおまえにキスしたみたいに、塔矢がおまえを誘ったのか?」
「そうなのかも知れないし、そうじゃないのかも知れない。わかんねぇ。
……でも、おまえと塔矢のキスシーンなんか見なかったら、あんな事にはならなかったな。
だからオレは…おまえらに煽られただけなのかな。でも…」
ヒカルはふと、アキラの言葉を思い出した。
――あいつを煽ってやったよ。
――そうしたら、ずっと好きだったの、憧れてたの、馬鹿馬鹿しくて聞いてられなかったよ。
本当なんだろうか。本当だとしたら、なんて酷い言い方なんだろう。
「和谷…和谷は、塔矢が好きなのか…?塔矢が好きだったのか?」
「…多分。」
和谷は自分でもアキラに対する気持ちが何だかよくわからなかった。
だから、多分、としか答えられなかった。
「なんだよ、多分って。ヘンな言い方。」
ヒカルは和谷の言葉にくすっと笑った。
「好きなら……しょうがないよな。
好きなヤツにキスされて、二人っきりになって、その気にならない男なんて、いないよな。
しかも、相手があんなヤツだったら…」
アキラと付き合い始める前、緒方と一緒にいる所を見た時の事を思い出した。
あんなふうに見せ付けられたら。和谷がオレと塔矢を見た時も、あんなふうに思ったんだろうか。
「オレだって無理矢理でもやっちまいたいって思った事、あるし、」
「…でも実際にヤるかどうかは別だよ。」
「…そうかもな。」
自嘲するように言う和谷に、ヒカルは小さく笑って応えた。


(14)
「そっか…和谷も、塔矢が好きだったのか。
知らなかったよ。てっきりキライなんだとばっかり思ってた。」
ヒカルはぽつんと独り言のように言った。
「最初に会ったときは、ヘンなヤツー、って思ったし、あいつ、友達とかいなさそうだし、和谷なんかも
すごい嫌ってるっぽくって、あいつって、嫌われ者?とか思ってたけど、そうじゃなかったんだな。
でも、当たり前だよな。嫌いになんかなれないよ、あんな奴。
緒方先生だって、あいつの事、すごく本気で真剣に好きみたいだった。
…なんかさ、ちょっと考えたら笑っちゃうよな。
緒方先生みたいな大人がさ、オレたちと同じくらいのトシの奴相手に真剣だなんて。
でもオレ、緒方先生が本気なの、すごいわかったし、当たり前だなって思う。
あいつは…塔矢は、塔矢がいつだって真剣だから、周りの奴も、ついつられて真剣になっちゃうんだよ。」
ヒカルは顔を上げて遠くを見ているような目で、続けた。
「オレもさ、塔矢が好きだ。すげえ好きだ。あいつ以外のヤツなんて考えられないくらい好きだ。
でも…でもさ、オレも和谷も、きっと変わんないよ。塔矢にとっては同じようなもんだよ、きっと。
あいつを好きな奴は一杯いて、オレはそん中の一人にすぎないんだよ…」
そんな事はない、と、和谷は強く思った。そんな筈はない。それは確信している。きっと、塔矢を本気に
させたのは進藤だけで、塔矢にとっても、進藤は誰よりも特別なはずだ。
けれど確信はあっても確証はなく、ヒカルを説得できるだけの言葉を、和谷は持たなかった。
だからできるのは気休めみたいな言葉を口にすることだけだった。
「そんな事…ねぇよ。おまえがそんな事言ったら、塔矢が可哀相じゃねぇか…」
だって塔矢はおまえのためだったらきっと簡単に人殺しだってできる。おまえのためだったら人を傷つけ
る事も怖がらない。それくらい、塔矢はおまえに本気なのに、おまえがそんな風に思ってるなんて、塔矢
が可哀相だ。


(15)
ヒカルはうなだれたまま、弱々しく首を振って、言った。
「もう、ダメなんだ。きっとあいつはオレを許さない。
あいつはオレを裏切ったけど、オレも同じようにあいつを裏切ったから。」
言っている意味がわからずに和谷は眉を顰めてヒカルを見たが、ヒカルは気付かずに続けた。
「そうされたらどんな気がするか、わかっててやったんだから、知らなかったあいつよりもオレの方
がたちが悪いよ。しかもオレは、オレの気持ちもわかれよ、って、あてつけみたいに…
オレはあいつの事、勝手だって責めたけど、勝手なのはオレも同じだ。
それに、もうやめにしようって、言ったのもオレの方だ。
なんで…なんであんな事、言っちゃったんだろう…もう会いたくないなんて、言っちゃったのは弾み
だったけど、もうダメだよ…取り消せないんだよ…バカだ、オレ…サイテーだよ…」
「サイテーなのはオレの方だよ。」
ヒカルの言葉を振り切るように和谷は言う。
「例えばさ、今日、おまえを誘ったのは……
おまえをやっちまったら、塔矢はどんな顔するかな、なんて思って、それでだったんだ。」
「……マジ?」
「ああ、マジだぜ。」
怯えたように後ずさろうとするヒカルに、和谷はくすっと笑いかけた。
「逃げんなよ、もう、そんな気、失せたから。それにこんなとこで何も出来るはずもないし…塔矢を
怒らせるために、塔矢の目をオレに向けるために、おまえをヤるなんて、おまえをキズつけようなん
て、そんな馬鹿馬鹿しい事、本気でするわけねぇだろ…」
そしてヒカルを見ていた目を床に落として、小さい声で和谷は言った。
「だって…そうでもしないとアイツはオレを見てもくれないんだよ。
アイツの目にはオレなんていないも同然なんだ。ずりぃよ、汚ねぇよ、塔矢。
だったらオレの前にあらわれるなよ。オレに笑いかけたりなんか、するなよ。オレにキスしたりなん
か、すんなよ。そうすればオレはあいつが好きだなんて気がつかなかったんだ。
オレは今まで通りにあいつを嫌っていられたんだ。」



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