誘惑 第二部 26 - 30


(26)
「…さん、」
ぼうっとしていて、声がかけられている事に気付かなかった。
「市河さん、市河さんってば!」
「あ、芦原先生。ごめんなさい。」
「どうしちゃったんですか?ぼうっとして。」
「ううん、なんでもないの。ただ…アキラくんがね、」
それだけ言って、市河は黙り込んでしまった。
「ねぇ、芦原先生、私、心配なの。
最近のアキラくん、ヘンだと思わない?なんだかピリピリしてて。」
「う…ん、そうだなぁ…」
「ちょっと前にね、よく進藤くんが来てたじゃない?
私ね、進藤くんといるアキラくんを見て、アキラくんってあんなに可愛かったんだなあ、って思ったのよ。
進藤くんと子供みたいな喧嘩して、アキラくんにもあんな歳相応のところがあったんだなあ、って。
自分で喧嘩して怒らせたくせに、そのくせ他のお客さんが進藤くんの事悪く言うと、必死にかばったり
して、カワイイなあって。アキラくんって、今まで同じ年頃の友達っていなかったじゃない?よっぽど嬉し
かったんだろうなって、思ってたのよ。
それなのに…進藤くんはもうずっとここには来ないし、アキラくんてば前以上に気負って、何だか一生
懸命自分を作ってるみたいで、見ててつらいの。どうしちゃったのかしら、アキラくん。」


(27)
「私、心配だわ。」
市河はもう一度言った。
「あんな状態で、海外遠征なんて、そりゃ、向こうに行けば先生も奥様もいらっしゃるけど…
北島さんなんて、単純に自分の事みたいに喜んじゃってるけど、でも、私、なんだか心配なの。」
そして、常連客と打っている北島の方をチラリと見て、続けた。
「なんか、北島さんて、もうアキラくんの後援会長のつもりみたい。
今度の中国行きも、壮行会やろうとか、出発の日に横断幕持って空港まで見送りに行こうとか。
ただでさえアキラくん、あんなにピリピリしてるのに、絶対、そういう事、嫌がると思うのよね。」
ちょっと拗ねたような口ぶりで市河は言った。
北島さんなんてアキラくんのこと、全然わかってないくせに、アキラくんの事を一番よくわかってる
のは私なのよ、って、そんな風に言いたいみたいだ。でも市河さんのアキラびいきもあんまり他人
のこと言えないと思うけどな、と芦原は内心小さく笑った。
「…それなのに、私、お節介が過ぎて、アキラくんに怒られちゃった。
ねぇ、芦原先生、私じゃダメなの。私じゃダメみたい。
でも、芦原先生になら、アキラくんも素直になれるかもしれない。」
本気で落ち込んでいる様子の市河が何だか可愛く見えて、ポン、と肩を叩いて芦原は言った。
「アキラに同年代の友達ができたんなら、オレなんか『友達』廃業かな、って思ってたけど。
うん、オレもちょっと心配だしさ、声かけてみるよ。」
そう言う芦原に少し安心して、芦原を見上げて市河は言った。
「……私、…アキラくんに嫌われちゃったかもしれないって思って、すごく、ショックだったの。」
「大丈夫だよ。市河さんがアキラの事心配してるからだって事はアキラにだってわかってるよ。」
「そうかしら。」
「そうだよ。大丈夫だよ。ちょっとさ、あいつも疲れて、ピリピリしてるだけなんだよ。市河さんの事、
嫌いになったわけじゃないよ。」
そしてまた、ぽんぽんと軽く市河の肩を叩いた。
「今日さ、メシにでも誘ってみるよ。オレなんかであいつの気晴らしになるかなんてわかんないけどさ。」
そう言うと、市河はほっとしたように、やっと笑みを見せた。


(28)
「ところでさ、市河さんてさ、彼氏いないの?結婚とか、しないの?」
「な、なあに?いきなり。それってセクハラですよ、芦原先生。」
「え?そうなの?そういうもの?」
そうですよ、と市河は軽く芦原を睨んだ。
「いや、えーと、あんまりアキラばっかかまってないでさ、そりゃあ、ここに来るのはほとんどオッサン
ばっかだけど、広瀬さんとかも、よく紹介してあげるとか言ってるじゃない?それにこの間も誰かが
お見合い話持ってきてたの、知ってるよ?それとも……アキラよりイイ男は中々いない?」
「ええっ!!な、な、何を言うの!芦原先生ってば!!」
何気なく冗談で言っただけのつもりなのに、市河の反応に、芦原は目を丸くした。
「わ、私は、アキラくんの事は可愛い弟みたいに…」
「市河さん……真っ赤だよ?」
「それに私はアキラくんどころか、芦原先生よりも年上なんですからね!
大体、それじゃ芦原先生は彼女いるんですか?ヒトの心配なんかしてる場合じゃないでしょ!」
もう!と顔を真っ赤にしたまま、ぷんぷん怒りながら、芦原を受付から追い払った。

ああ、びっくりした。いきなり何を言い出すのかしら。芦原先生ったら。
ほっと胸を撫で下ろし、それから、ちらり、と横目でアキラを見た。
でも、ホントにアキラくん、大人っぽくなった。
ついこの間まではちっちゃくて無邪気な小学生で、ホントに可愛かったのに。可愛いだけだったのに。
今じゃすっかりあの頃の「可愛い」アキラくんなんて、面影くらいしかないみたい。
背も高くなったし、肩幅だって……。
そう思いながらそっと盗み見ると、ちょうどアキラが顔を上げて窓の外を見て、ふうっと溜息をついた。
どことなく寂しげな、憂いを帯びた眼差しに、引き寄せられるような気がした。
見ているとドキドキして、なんだか胸が熱くなってくる。
私、ヘン?今日は私、なんだかヘン。なんだかおかしい。どうしちゃったのかしら。
でも、違う。違うわ。このドキドキはさっき芦原さんにいきなりヘンな事を言われたから、それだけ。
私にとってはアキラくんは、可愛い弟で、それから、影で成長を見守って、こっそり応援してる、そう、
アイドルみたいなもの。そうよ、それだけなんだから。


(29)
「おい、アキラ、メシ食いに行こうぜ。」
そう行って、芦原は強引にアキラを連れ出し、碁会所の近くの店に入った。
「おまえ、ホントになんか痩せたって言うか、随分やつれてないか?大丈夫か?」
「そうですか…?」
「市河さんも心配してたぜ?」
「今日は…ボクも済まなかったって、伝えておいてください。市河さんに頼まれたんでしょう?
ボクにちゃんと食べさせろって。」
「まあね。でもホントに、オマエ…何かあったのか?」
心配そうにアキラを覗き込む芦原に、アキラは苦笑を返した。
「なあ、オレも市河さんも心配してるんだぜ?それともオレなんかには言えない?」
なんとなく拗ねているような口ぶりで、こういう所が芦原さんにはかなわないなあ、とアキラは思う。
この人は、妙に、相手を気楽にさせるところがある。ボクはこの人のそういう所が好きだ。
何も言わないのが申し訳ないような気がして、アキラはポロリと言ってしまった。
「…失恋、かな。」
「失恋?おまえがか?」
思わず大声で応えた芦原に、呆れたようにアキラが返した。
「そんな、大声で驚かないで下さいよ、芦原さん。」
「だって、失恋って、おまえ、好きなヤツとか、いたのか?いつの間に?」
「…なんだか失礼しちゃうなあ、その言い方。」
アキラは軽く芦原を睨んだ。
「それにもう振られたんだし。」
「振られた?おまえが?」
「だから、芦原さん、声が大きいって…」
「ご、ゴメン…」
ちょっと肩をすくめて、アキラをちろっと見てから、笑ってアルコールのメニューを突き出した。
「わかった、付き合うよ。やっぱ失恋にはやけ酒だよな。オレも何度苦い酒を飲んだかわかんないよ。
よし、今日はオレが奢ってやる。何飲む?」


(30)
失恋、か。一般的にこの状況にはその言葉で合っているのだろうけれど、何かが違うような気もする。
だってボクは彼に対する恋(?という言葉さえ、違和感を感じる)を失くしたわけじゃない。少なくとも、
ボクの彼への気持ちは変わっていない、と思う。
「話してみろよ。オレでよかったら聞いてやるよ。」
生ジョッキをぐいっと呷ってから、芦原がアキラに言った。
「どうしてかな。」
誰かに話してしまいたい気持ちはあった。
けれどどんな風に言えば?
しかも出てくる名前ときたら男ばっかりだ。いったい何をやってるんだろう、ボクは。
そう思うと何だか馬鹿馬鹿しくなってきて、アキラは自嘲するように小さく笑った。
どうして?どうしてこんな事になってしまったんだろう?何が原因だったんだろう?
いつからおかしくなっちゃったんだろう。最初は…
「そうだな…きっかけは…ボクの浮気、って事になるのかなあ。」
失恋。浮気。陳腐な言葉だ。型にはまったような言葉では何も語れないような気がする。けれど全てを
ありのままに話す事なんて、それこそできる訳がない。だったらいっそわかりやすい言葉で、陳腐な
状況として語ってしまえばいい。そんな思いから、わざと軽い口調で、アキラは言ってみた。
「最初は……そう、ボクが…ボクの…付き合ってた相手の、友達と、つい、やっちゃって、」
「…や、やっちゃったって、な、何を?」
芦原は思わず鸚鵡返しに叫んだ。
「セックス。」
シンプルにアキラは答えた。
その答えに芦原は絶句した。



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