誘惑 第二部 21 - 25
(21)
オレは誰かを好きになったのは初めてで、何もかも初めてで、何にもわかってなかった。
オレがあいつに好きだって言って、あいつもオレを好きだって言ってくれて、その時は嬉しくて。
オレは有頂天で、余計な事なんか何も考えたりしなかった。
あいつの言葉をその通りに受け取った。
疑う事なんて何もなかった。
抱き合っていれば二人が一つに溶け合って、オレは塔矢で、塔矢はオレで、あいつの心も、
身体も、全部オレのものなんだって、何の疑いも無く信じられた。
オレは塔矢に夢中で、周りなんか見えてなかった。
塔矢が和谷にキスした時だって、なんでオレがいるのにそんな事するんだって、塔矢に怒った
けど、された和谷がどう思ったかなんて、考えもしなかった。
その上、和谷も塔矢が好きだったなんて、気付きもしなかった。
でも、だからどうすりゃ良かったかなんて、言われてもわかんないけど。
「塔矢…」
夕暮れの空に細く光る三日月を仰ぎ見て、ヒカルは彼の名を呟いた。
(22)
塔矢もどこかでこの月を見ているだろうか。
でも、もしいまここに塔矢がいても、二人で月を見上げて、二人して「月が綺麗だね」と言ったと
しても、きっと感じてる事は、考えてる事は同じとは限らないんだ。
どんなに好きだって、ホントはそれぞれ別の人間で、同じ事を見ていても、同じ事を感じてる訳
じゃないんだなんて、今の今まで気が付かなかった。ましてこんなに離れてしまって、見ている
ものさえ違ってしまって、離れているままにオレ達はどんどん遠くなっていってしまうんだろうか。
それとも、オレはこうして月を見上げておまえを思っていても、おまえはオレの事なんか思い出
しもしないんだろうか。
あいつとオレとは考えてる事が全然違う。
違う人間なんだから当たり前なのかもしれないのに、そんな事気付きもしなかった。
でも、大好きだから、もっと知りたくて、全部知りたくて、だから抱き合うんじゃないのか?
支配するとかしないとか、そんなんで好きでもないのにできるなんて、ヘンだ。
おまえ、おかしいよ、塔矢。
おまえ、自分が和谷に何したかわかってんのか?酷いよ、おまえ。
おまえを好きだって言ってる奴を煽って、馬鹿にして、そりゃ和谷の態度も悪かったかもしれない
けど、やっぱりそんな事しちゃいけないよ。
オレは加賀にも悪い事した。あんな事しちゃいけなかった。
もし加賀に本当に好きな奴がいるんだったら、加賀の事を本当に好きな奴がいるんだったら、
きっとオレのした事は許せないはずだ。
オレはきっと、塔矢の事が知りたくて加賀を利用しただけだったんだ。
するのは簡単だったけど、だからって簡単にしていい事じゃない。
(23)
塔矢がオレを好きだって言ってくれて、オレは有頂天で、あいつの言葉を疑ったり、その意味を
考えたりなんかしなかった。
それなのに今のオレは、塔矢の言葉を信じきれない。
どうして塔矢はオレなんか選んだんだろうって、どうしてそんな事思ってしまうんだろう。
だって、オレよりも緒方先生の方が大人だし、塔矢が子供の頃からよく知ってるし、きっと塔矢の事
をよくわかってて、オレみたいにあいつを怒らせたりしないで、あいつを甘やかしてやれるんだ。
だから塔矢は、オレが塔矢のことで加賀に頼ったみたいに、オレと和谷との事で緒方先生に頼った
んだろうか。
でも、だからって、そんなの…わかるけど、でもそんなの嫌だ。考えたくない。塔矢が他の男と一緒
にいるなんて。ましてやそれがあいつだなんて。
塔矢はオレのもんだ。丸ごと全部オレのもんだ。他のヤツになんか触らせたくない。
だって、オレが好きだって言ったじゃないか。そりゃあ、オレはあいつに比べたら全然頼りにならない
かもしれないけど、でもオレに頼ってみてくれても良かったじゃないか。
(じゃあオレはどうして塔矢じゃなくて加賀に頼って甘えたんだ?)
それなのにオレじゃダメだったのか?なんであいつなんだ?オレじゃ何か足りないのか?
オレを選んでも、オレを好きだって言っても、それでもあいつが忘れられなかったのか?
だったらオレなんかのどこが良くて、どこが好きだなんて言ったんだよ、塔矢?
(24)
でも…じゃあ、オレはなんで塔矢が好きなんだ?
囲碁が強いから?キレイだから?
違う、そんなんじゃない。それだけで好きなんじゃない。
でも、じゃあ、なんで?
わかんねぇ。理由なんて。気が付いたら好きになってたんだ。
理屈なんか、関係ない。理由なんてわからない。
ただいつだって、考えるのはあいつの事なんだ。思い出すのはあいつなんだ。
触りたいと思うのだって、触って欲しいと思うのだって、あいつなんだ。あいつだけなんだ。
理由なんてあるか。
あいつを知って、あいつを好きにならないヤツなんて、いるか?
いねぇよ。
和谷みたいに、あいつなんか嫌いだって言ってたり、そういう態度とってるヤツだって、本当は塔矢
を無視できないからそう言ってるだけだ。
塔矢。
塔矢、オレの、塔矢。
…もう……オレのじゃない、塔矢。
オレ、頭がおかしくなりそうだ。
塔矢、おまえの事考えると、オレ、混乱して、滅茶苦茶になって、頭おかしくなりそうだ。
オレ、どうしたらいいのか、わかんねぇ。わかんねぇよ、塔矢。
(25)
最近また一人で碁会所に現れるようになったアキラに、コーヒーを渡しながら、市河は心配そうに
声をかけた。最近はそうやってアキラに向かって繰言を言うのがまるで日課のようになっていた。
「ねえ、アキラくん、本当に痩せたわよ?なんだか顔色も悪いし、ちゃんと食べてるの?」
「そりゃあ、母の料理にはかないませんけど、なんとかやってますよ。」
「ううん、とっても『なんとかやってる』ふうになんて見えないわ。
やっぱりダメなのよ。一人なんて。ね、私がご飯つくりに行ってあげる。」
だが、アキラは困ったような曖昧な微笑を返すだけだった。
「いいでしょう?ね、今日は?今日は何にも持って来れなかったから、行ってあげるわ。
ちゃんと食べなきゃダメよ。ね、そうしましょう。ここ、早めに閉めて…」
「やめてください…!もう!」
思わず声を荒げたアキラに市河は息を飲んだ。
「アキラくん…」
「…ごめんなさい。でも、大丈夫ですから。」
硬い、冷たい声でアキラが返した。
「若先生!」
アキラに客から声がかけられた。
「指導碁の予約が入ってますから。
済みません、ご心配をおかけして。でも本当に、ボクは大丈夫ですから。」
そう言って、市河に微笑みかけてアキラは受付を去り、声のかけられたほうへ向かった。
けれど市河はその微笑みにショックを受けた。
今まで、アキラくん、私に向かってはあんなどうでもいいような笑い方なんてしなかったのに。
あんな冷たい営業用の言葉遣いなんて、私にはした事なかったのに。
どうしちゃったの?アキラくん。
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