誘惑 第二部 25 - 28


(25)
最近また一人で碁会所に現れるようになったアキラに、コーヒーを渡しながら、市河は心配そうに
声をかけた。最近はそうやってアキラに向かって繰言を言うのがまるで日課のようになっていた。
「ねえ、アキラくん、本当に痩せたわよ?なんだか顔色も悪いし、ちゃんと食べてるの?」
「そりゃあ、母の料理にはかないませんけど、なんとかやってますよ。」
「ううん、とっても『なんとかやってる』ふうになんて見えないわ。
やっぱりダメなのよ。一人なんて。ね、私がご飯つくりに行ってあげる。」
だが、アキラは困ったような曖昧な微笑を返すだけだった。
「いいでしょう?ね、今日は?今日は何にも持って来れなかったから、行ってあげるわ。
ちゃんと食べなきゃダメよ。ね、そうしましょう。ここ、早めに閉めて…」
「やめてください…!もう!」
思わず声を荒げたアキラに市河は息を飲んだ。
「アキラくん…」
「…ごめんなさい。でも、大丈夫ですから。」
硬い、冷たい声でアキラが返した。
「若先生!」
アキラに客から声がかけられた。
「指導碁の予約が入ってますから。
済みません、ご心配をおかけして。でも本当に、ボクは大丈夫ですから。」
そう言って、市河に微笑みかけてアキラは受付を去り、声のかけられたほうへ向かった。
けれど市河はその微笑みにショックを受けた。
今まで、アキラくん、私に向かってはあんなどうでもいいような笑い方なんてしなかったのに。
あんな冷たい営業用の言葉遣いなんて、私にはした事なかったのに。
どうしちゃったの?アキラくん。


(26)
「…さん、」
ぼうっとしていて、声がかけられている事に気付かなかった。
「市河さん、市河さんってば!」
「あ、芦原先生。ごめんなさい。」
「どうしちゃったんですか?ぼうっとして。」
「ううん、なんでもないの。ただ…アキラくんがね、」
それだけ言って、市河は黙り込んでしまった。
「ねぇ、芦原先生、私、心配なの。
最近のアキラくん、ヘンだと思わない?なんだかピリピリしてて。」
「う…ん、そうだなぁ…」
「ちょっと前にね、よく進藤くんが来てたじゃない?
私ね、進藤くんといるアキラくんを見て、アキラくんってあんなに可愛かったんだなあ、って思ったのよ。
進藤くんと子供みたいな喧嘩して、アキラくんにもあんな歳相応のところがあったんだなあ、って。
自分で喧嘩して怒らせたくせに、そのくせ他のお客さんが進藤くんの事悪く言うと、必死にかばったり
して、カワイイなあって。アキラくんって、今まで同じ年頃の友達っていなかったじゃない?よっぽど嬉し
かったんだろうなって、思ってたのよ。
それなのに…進藤くんはもうずっとここには来ないし、アキラくんてば前以上に気負って、何だか一生
懸命自分を作ってるみたいで、見ててつらいの。どうしちゃったのかしら、アキラくん。」


(27)
「私、心配だわ。」
市河はもう一度言った。
「あんな状態で、海外遠征なんて、そりゃ、向こうに行けば先生も奥様もいらっしゃるけど…
北島さんなんて、単純に自分の事みたいに喜んじゃってるけど、でも、私、なんだか心配なの。」
そして、常連客と打っている北島の方をチラリと見て、続けた。
「なんか、北島さんて、もうアキラくんの後援会長のつもりみたい。
今度の中国行きも、壮行会やろうとか、出発の日に横断幕持って空港まで見送りに行こうとか。
ただでさえアキラくん、あんなにピリピリしてるのに、絶対、そういう事、嫌がると思うのよね。」
ちょっと拗ねたような口ぶりで市河は言った。
北島さんなんてアキラくんのこと、全然わかってないくせに、アキラくんの事を一番よくわかってる
のは私なのよ、って、そんな風に言いたいみたいだ。でも市河さんのアキラびいきもあんまり他人
のこと言えないと思うけどな、と芦原は内心小さく笑った。
「…それなのに、私、お節介が過ぎて、アキラくんに怒られちゃった。
ねぇ、芦原先生、私じゃダメなの。私じゃダメみたい。
でも、芦原先生になら、アキラくんも素直になれるかもしれない。」
本気で落ち込んでいる様子の市河が何だか可愛く見えて、ポン、と肩を叩いて芦原は言った。
「アキラに同年代の友達ができたんなら、オレなんか『友達』廃業かな、って思ってたけど。
うん、オレもちょっと心配だしさ、声かけてみるよ。」
そう言う芦原に少し安心して、芦原を見上げて市河は言った。
「……私、…アキラくんに嫌われちゃったかもしれないって思って、すごく、ショックだったの。」
「大丈夫だよ。市河さんがアキラの事心配してるからだって事はアキラにだってわかってるよ。」
「そうかしら。」
「そうだよ。大丈夫だよ。ちょっとさ、あいつも疲れて、ピリピリしてるだけなんだよ。市河さんの事、
嫌いになったわけじゃないよ。」
そしてまた、ぽんぽんと軽く市河の肩を叩いた。
「今日さ、メシにでも誘ってみるよ。オレなんかであいつの気晴らしになるかなんてわかんないけどさ。」
そう言うと、市河はほっとしたように、やっと笑みを見せた。


(28)
「ところでさ、市河さんてさ、彼氏いないの?結婚とか、しないの?」
「な、なあに?いきなり。それってセクハラですよ、芦原先生。」
「え?そうなの?そういうもの?」
そうですよ、と市河は軽く芦原を睨んだ。
「いや、えーと、あんまりアキラばっかかまってないでさ、そりゃあ、ここに来るのはほとんどオッサン
ばっかだけど、広瀬さんとかも、よく紹介してあげるとか言ってるじゃない?それにこの間も誰かが
お見合い話持ってきてたの、知ってるよ?それとも……アキラよりイイ男は中々いない?」
「ええっ!!な、な、何を言うの!芦原先生ってば!!」
何気なく冗談で言っただけのつもりなのに、市河の反応に、芦原は目を丸くした。
「わ、私は、アキラくんの事は可愛い弟みたいに…」
「市河さん……真っ赤だよ?」
「それに私はアキラくんどころか、芦原先生よりも年上なんですからね!
大体、それじゃ芦原先生は彼女いるんですか?ヒトの心配なんかしてる場合じゃないでしょ!」
もう!と顔を真っ赤にしたまま、ぷんぷん怒りながら、芦原を受付から追い払った。

ああ、びっくりした。いきなり何を言い出すのかしら。芦原先生ったら。
ほっと胸を撫で下ろし、それから、ちらり、と横目でアキラを見た。
でも、ホントにアキラくん、大人っぽくなった。
ついこの間まではちっちゃくて無邪気な小学生で、ホントに可愛かったのに。可愛いだけだったのに。
今じゃすっかりあの頃の「可愛い」アキラくんなんて、面影くらいしかないみたい。
背も高くなったし、肩幅だって……。
そう思いながらそっと盗み見ると、ちょうどアキラが顔を上げて窓の外を見て、ふうっと溜息をついた。
どことなく寂しげな、憂いを帯びた眼差しに、引き寄せられるような気がした。
見ているとドキドキして、なんだか胸が熱くなってくる。
私、ヘン?今日は私、なんだかヘン。なんだかおかしい。どうしちゃったのかしら。
でも、違う。違うわ。このドキドキはさっき芦原さんにいきなりヘンな事を言われたから、それだけ。
私にとってはアキラくんは、可愛い弟で、それから、影で成長を見守って、こっそり応援してる、そう、
アイドルみたいなもの。そうよ、それだけなんだから。



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