誘惑 第二部 29 - 32


(29)
「おい、アキラ、メシ食いに行こうぜ。」
そう行って、芦原は強引にアキラを連れ出し、碁会所の近くの店に入った。
「おまえ、ホントになんか痩せたって言うか、随分やつれてないか?大丈夫か?」
「そうですか…?」
「市河さんも心配してたぜ?」
「今日は…ボクも済まなかったって、伝えておいてください。市河さんに頼まれたんでしょう?
ボクにちゃんと食べさせろって。」
「まあね。でもホントに、オマエ…何かあったのか?」
心配そうにアキラを覗き込む芦原に、アキラは苦笑を返した。
「なあ、オレも市河さんも心配してるんだぜ?それともオレなんかには言えない?」
なんとなく拗ねているような口ぶりで、こういう所が芦原さんにはかなわないなあ、とアキラは思う。
この人は、妙に、相手を気楽にさせるところがある。ボクはこの人のそういう所が好きだ。
何も言わないのが申し訳ないような気がして、アキラはポロリと言ってしまった。
「…失恋、かな。」
「失恋?おまえがか?」
思わず大声で応えた芦原に、呆れたようにアキラが返した。
「そんな、大声で驚かないで下さいよ、芦原さん。」
「だって、失恋って、おまえ、好きなヤツとか、いたのか?いつの間に?」
「…なんだか失礼しちゃうなあ、その言い方。」
アキラは軽く芦原を睨んだ。
「それにもう振られたんだし。」
「振られた?おまえが?」
「だから、芦原さん、声が大きいって…」
「ご、ゴメン…」
ちょっと肩をすくめて、アキラをちろっと見てから、笑ってアルコールのメニューを突き出した。
「わかった、付き合うよ。やっぱ失恋にはやけ酒だよな。オレも何度苦い酒を飲んだかわかんないよ。
よし、今日はオレが奢ってやる。何飲む?」


(30)
失恋、か。一般的にこの状況にはその言葉で合っているのだろうけれど、何かが違うような気もする。
だってボクは彼に対する恋(?という言葉さえ、違和感を感じる)を失くしたわけじゃない。少なくとも、
ボクの彼への気持ちは変わっていない、と思う。
「話してみろよ。オレでよかったら聞いてやるよ。」
生ジョッキをぐいっと呷ってから、芦原がアキラに言った。
「どうしてかな。」
誰かに話してしまいたい気持ちはあった。
けれどどんな風に言えば?
しかも出てくる名前ときたら男ばっかりだ。いったい何をやってるんだろう、ボクは。
そう思うと何だか馬鹿馬鹿しくなってきて、アキラは自嘲するように小さく笑った。
どうして?どうしてこんな事になってしまったんだろう?何が原因だったんだろう?
いつからおかしくなっちゃったんだろう。最初は…
「そうだな…きっかけは…ボクの浮気、って事になるのかなあ。」
失恋。浮気。陳腐な言葉だ。型にはまったような言葉では何も語れないような気がする。けれど全てを
ありのままに話す事なんて、それこそできる訳がない。だったらいっそわかりやすい言葉で、陳腐な
状況として語ってしまえばいい。そんな思いから、わざと軽い口調で、アキラは言ってみた。
「最初は……そう、ボクが…ボクの…付き合ってた相手の、友達と、つい、やっちゃって、」
「…や、やっちゃったって、な、何を?」
芦原は思わず鸚鵡返しに叫んだ。
「セックス。」
シンプルにアキラは答えた。
その答えに芦原は絶句した。


(31)
頭がぐらぐらしそうだ。今、アキラは何ていった?オレの聞き間違いか?
「…おまえ……おまえって、そんな事いうヤツだったか…?」
「ヘンですか?」
「おまえ…先生達がいないからってそんな……
って事は、その、付き合ってたコとも…その………してたのか?」
「当たり前でしょう。」
「おまえ…いつの間に……」
「そんなに驚く事かなあ。普通じゃない?」
「普通って…」
おまえのどこが普通だよ?と思いながらも、芦原は脱力した声で言った。
確かに今時の中学生ならそれが普通なのかもしれないけれど、まさかアキラにそんな付き合いの
カノジョがいるなんて、思いもしなかった。
「いや、おまえにもフツーの今時の子らしい所があったんだな、ヘンなとこで…」
芦原のその様子に、アキラは肩をすくめてクスッと笑った。
まるで自分を鼓舞するように芦原はビールのジョッキをぐいっと呷り、アキラに続きを促す。
「で?」
「で、つい、やっちゃって、そうしたら何故だかその前に付き合ってた人の事を思い出しちゃって、」
「……で、もしかして、その前のカノジョとも、つい、やっちゃった、って言うのか…?」
「そう。」
アキラはあっさりと答えた。


(32)
ホントは彼女じゃなくて彼だし、どっちかって言うとやっちゃったよりやられちゃったの方が近いし、
その人はあなたもよく知ってる人ですよ、芦原さん――などという事は無論、口には出さずに。
だがそのアキラのあっさりさ加減に、芦原は思わずテーブルに突っ伏した。
「おまえ、幾つになったんだっけ…?」
「15。」
まだ15のガキのくせに。涼しい顔して、今の彼女とその友達と、更に前の彼女だって?大体、いつ
の間に前のカノジョと付き合って、別れて、今のカノジョなんだ?今までそんな事、おくびにも出さ
なかったくせに。なんてヤツだ。オレにも内緒で。
「…で、その事が今のカノジョにばれて、それで振られたのか?」
「いや、バレたのはバレたんだけど、それも半分はきっかけに過ぎなくって、」
「まだ、あるのかよ…?」
「今度はそのコが他のヤツとやっちゃって、…まあ、ボクがどうしょうもないのが悪いんだけど。」
全く、最近のガキと来たら、一体なんなんだ。乱れてるのにも程がある。
って、何だ?今のオレの台詞は。「今時の子供ときたら」なんて、オレ、もうオヤジなのかよ…?
芦原はもはや呆れ顔でアキラを見るしかできなかった。
「それで、ボクはどうしてもその事が許せなかったんだ。自分の事は棚に上げて。」
「そりゃ、おまえ、最低だ…。」
「最低ですよね。でも、ボクが最低なのはわかってるんだけど…」



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