誘惑 第二部 33 - 36


(33)
「…でも、それでも、どうしても許せない。」
急に変わったアキラの声音に芦原はぎくりとして、すするようにジョッキに口をつけながら、アキラ
を横目で盗み見た。
「ボク以外の誰かが、あの身体に触れたなんて。ボク以外の誰かに、触らせたなんて。他の男を
受け入れたなんて。許せない。許せるはずがない。」
手に持ったグラスを握り締めながら、底光りするような眼でグラスの中身を睨むアキラに、芦原は
背筋が寒くなるのを感じた。
まだまだ子供だと思っていたアキラが、急に声も、目つきも、「男」になってしまったのを見せ付け
られて、感慨にふける前に、その変化に芦原はぞっとした。
「相手はボクの知らないヤツだけど、それでまだ良かったかもしれない。」
知ってるヤツだったら…ボクがどうなってたか、そいつに何をしていたかわからない。
今だって、思い出しただけで殺してやりたいと思ってしまうのに。
「お、おい…アキラ…、」
どもりながら彼の名を呼ぶ芦原に、アキラはふっと穏やかな表情に戻って、笑いかけた。
「やだなあ、芦原さん、なに怯えてるんですか?
誰も芦原さんを殺してやりたいなんて、思ってませんよ。」
だがその豹変ぶりが、芦原は恐ろしいと思った。
もしかしたら、オレはこいつの事を何一つ知らないのかもしれない。いつものように穏やかに笑っ
ていても、その裏で何を考えていて、オレの気付かない所では何をしてるんだか、わかったもん
じゃない。いつの間に、オレの知らない間に、アキラは変わってしまったんだ。
「で、許せないとか…もっと酷い言葉をぶつけて…お互い、ぶつけあって…それでもうイヤだって、
そんな自分勝手なボクにはついてけないって、もう会いたくないって……
そう言って振られたんですよ。」
アキラは芦原のジョッキに自分のグラスを軽い音を立ててぶつけた。
それで、芦原さんはどう思いますか?と問うようににっこりと笑いかけるアキラに、芦原はまるで
追従するようにへらへらと笑いを返すしかできなかった。我ながら情けない、と思いながら。


(34)
そんな自分を勇気付けるように、芦原はジョッキの中身を一気に飲み干しておかわりを注文する。
そして、疲れたように溜息をひとつ、ついた。
アキラの持つ激しさに、今更ながら驚かされる。
そうだ。コイツはそういうヤツだった。一見、穏やかに見えるけど、お育ちのいいお坊ちゃんに見える
けど、本当は火のように熱く激しい激情の持ち主で、しかも頑固で、自分を譲るということを知らない。
そんなアキラなら、本当に相手を殺しかねない。本当はそれ程に激しい性格の持ち主だという事を、
知っているつもりではいたが、改めてみたその激しさに思わず身が竦む。
こんな風に、アキラに火をつける人間がいたのか。
進藤ヒカル以外に、アキラをこんな風に変えてしまう人間がいたのか。しかも囲碁への情熱でなく。
アキラがこんなに恋愛にアツくなるなんて、思いもしなかった。一体どんな女性なのだろう。アキラの
中の、恋という名の情熱に火をつけたのは。
「一体、どんなヤツなんだ。おまえをそんなにさせるなんて。」
芦原はふとそんな言葉を漏らし、そしてそれがどこかで聞いたような言葉だと思って記憶を手繰った。
「…ああ、思い出した。緒方さんだ。」
唐突に出てきたその名前に、アキラは一瞬身を硬くする。
そしてその緊張を押し隠して尋ねる。
「緒方さんが…どうか、したんですか?」
「え?ああ、ちょっと前にもさ、こんな風に緒方さんと飲んだんだよ。
あの緒方さんが失恋したとか言ってさ、一体、緒方さんを振るようなひとって、どんなひとなんだろうっ
て、そん時も、思ったんだよ。」
アキラの声音の変化に、そしてアキラが軽く眉をひそませたのをみて、芦原が尋ねた。
「おまえ…なんか、知ってるのか?」
「……いいえ。」
ふうん、と言うようにアキラを見ながらも、それ以上は追求しなかった。


(35)
「しかし、緒方さんもおまえも失恋したなんて言ってるしさ、オレもずーっと彼女いないし、塔矢一門
は呪われてるのかなあ…?」
さあ?と、アキラは曖昧な笑みを返す。
「緒方さんも相手が誰なんだかは結局教えてくれなかったしなあ。なんで皆そんな秘密主義なんだ。
でもさ、なんか笑っちゃうよな、あの緒方さんが失恋なんてさ、女なんていくらでもいるとか、本気の
恋愛なんて鬱陶しい、なーんて言ってたくせに。」
「不謹慎ですよ、芦原さん。しかも失恋したてのボクの前で。」
「でも…あの時の緒方さんはツラそうだったなあ…。よっぽど、好きだったんだろうなあ…
やっぱ…本気で惚れてる時は…ツライ、なんてもんじゃないよなあ…」
芦原の言葉に、アキラは苦い笑みを浮かべながらグラスを揺らした。
申し訳ないと思う反面、どこかで嬉しいと思っているボクは本当にどうしようもない。
おまえはオレの事を全然わかっていない、あの人はそんなふうに言っていた。
アキラ、おまえは残酷だ、と。言われても言葉の意味まで考えていなかった。
結局ボクのした事はなんだったんだろう。あの人に甘えて、きっとまたあの人を傷つけて。
ごめんなさい、緒方さん。ううん、ごめんなさい、なんて言葉で済ませられるものじゃない。
ボクときたら、自分の気持ちばっかりで、緒方さんの痛みなんて、これっぽっちも考えていなかった。
そして進藤の痛みも。言われるまで考えた事なんてなかったんだ。自分がその立場に立たされるまで、
そうされたらどう思うかなんて、考えた事もなかったんだ。そのくせ、自分の事は棚に上げて相手を責
めるばっかりで。


(36)
ふいに涙があふれそうになって、アキラは慌てた。
「ねえ、芦原さん、ボクは…どうしたらいいのかな……芦原さんは…今まで、どうしてたんですか?」
「おい…アキラ…」
「…だって、」
急に酔いが回ってきたように感じる。
一体何してるんだろう、ボクは。お酒を飲んで、つまんない打ち明け話をして、愚痴を言ってこぼし
て、酔っ払って、ボクは…こんな、情けないヤツだったのか。知らなかったよ。
「おい、アキラ、大丈夫か…?」
声をかけられて、アキラは今にも泣き出しそうな顔で芦原を見上げた。
「芦原さん…」
大丈夫なんかじゃない、と、アキラは力弱く首を振った。
あんな事を言っていても、たまにこうやって年相応に可愛く見えるから、こいつも困ったもんだ。
そう思って芦原はアキラを見下ろした。
「飲みすぎだよ。いくらおまえがイケル口だっていったってさ、」
しょうがないなあ、という風に芦原はアキラの頭をそっと撫でた。
「もう帰ろう。帰ったほうがいい。」
会計を済ませて店を出ると、先に出ていたアキラは店の横のベンチに座って壁にもたれていた。
さっきの歩き方を見ても、かなり酔いが回っているようだ。珍しい、と芦原は思った。いつもはそんな隙
など見せた事もなく、誰よりも平気そうな顔をして強がっていたアキラが。だが芦原の目から見れば、
その強がりも子供らしい可愛さだったし(それでも自分より遥かに酒に強いという事実は小憎らしくもあっ
たが)、今日の本気で落ち込んでる風のアキラは更に可愛く、久しぶりに自分が相応に年上に感じられ
て、ちょっとだけいい気分だった。
まだまだ子供だよな、アキラも。そう思いながら、今にもそこに倒れかねない風情のアキラに声をかけた。
「ホラ、アキラ、行くぞ。大丈夫か?」
「ん……」
優しく自分の体を引き起こそうとする手が心地よくて、アキラは無意識に腕を伸ばして彼の首に絡め、
彼の唇に唇で触れようとした。



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