誘惑 第二部 41 - 45


(41)
独りで考えていると、思考はぐるぐると同じ所を巡って、どんどん嫌な方向へと降りて行ってしまう。
自分の臆病さが情けないと思った。
こんな風に何かから誰かから逃げるのは初めてだ。今まではそんな事はなかった。
始めて会った頃の進藤に碁で打ち負かされたときも、恐ろしかったけれど、でも逃げようなんて思った
ことはなかった。どんな相手にだって、どんなに恐ろしくても立ち向かっていった。
それなのに今は、こんなに震えて、独りで怯えて逃げている自分が、信じられないと思った。

怖いのは彼に拒絶される事だけじゃない。
会ってしまったら、自分の身勝手さは百も承知で、それでも彼を責めてしまいそうな自分が怖かった。
きっと彼の顔を見たら、状況など構わずに感情を爆発させてしまう。
そうする事で彼と自分との距離が遠くなってしまう事がわかっていても。
理性では自分の非を認められても、それで、彼を責める気持ちが、どこかの誰かを絞め殺してやりた
いという気持ちが消せるわけじゃない。
それで嫌われたとわかっているのに、また同じ台詞を言ってしまいそうで。
「許せない」と。「キミはボクのものだ」と。「ボク以外の誰かに触らせるなんて許さない」と。
身勝手な言葉をぶつけてしまいそうで。
いつも、いつも、そうだ。彼が絡むと感情のタガが外れてしまう。他の人と接するときのような平静を保
てない。自分で自分がコントロールできなくなってしまう。

怖い、と思った。自分を。そしてヒカルを。
彼といると自分が自分でなくなってしまうような気がする。
誰かを恐ろしいと思うなんて初めてだった。


(42)
このままじゃいけない。
オレは塔矢に会いたいのに。会いたくないって言っちゃったのはオレの方だけど、でもそれは本当の
気持ちじゃない。だから、追いかけてきてくれない、なんて言ってないでオレの方から会いに行かな
きゃいけない。

今度の木曜、棋院に行けばあいつは必ずいる。それを逃したら当分会える機会はないかもしれない。
確か、中国に行くって言ってた。もうじきの筈だ。だからその前に、会わなくちゃいけない。
オレはまだおまえが好きだって、もう一回、あいつに伝えなきゃいけない。


(43)
―塔矢だ!
久しぶりに見たアキラの斜め後姿に、それだけでヒカルは涙が出そうになった。
塔矢。会いたかった。会いたかったんだよ。
きっと自分がすごい情けない顔をしてるのがわかる。
塔矢、と、呼びかけようとして、ヒカルは息を飲んだ。
エレベーターから降りて真っ直ぐアキラに近寄り、アキラに話しかける男。トレードマークの白スーツは、
遠目でだって、誰だかくらいすぐにわかる。
アキラの表情はよくわからない。だが、アキラが緒方と一緒にいる、それだけでヒカルは打ちのめされた。
向かい合って何か話している緒方の手がふと伸び、指がアキラの頬に触れそうになるのが見えた。
頭に血が上って、目の前が真っ赤に染まった気がした。

思わず柱の影に背を張り付けて隠れた。
前にもこんな事があった。どうして同じ事を繰り返してしまうんだろう。
あの時も、何も言えなくて、一人で隠れて、でも悔しさで一杯だった。
そして、どうして今も、オレは何も言えなくて、こんな所に隠れてるんだ?
塔矢。
おまえにとって緒方先生は何なんだ?
オレは、何なんだ?
おまえにはオレはもう要らないのか?緒方先生がいるからそれでいいのか?
だから、オレがやめようって言ったら、何も言わずにそのまま会いにも来なかったのか?
そうなのか?塔矢。


(44)
対局を終えて、ほっと一息ついて帰ろうとしかけたところを後から呼び止められた。
「アキラくん、待ちなさい。」
昼休みにこの人を見かけてから、嫌な予感がしていた。案の定だ。
「何ですか、緒方さん。」
振り向いて見上げたら、緒方の手が伸びて指先が頬に触れそうになった。思いがけない仕草に
息を飲んで睨みつけようとしたら、そのまま、パシッと軽く頬を叩かれた。
アキラは目を見開いてそのまま動かずに緒方を見上げた。
「何だ、その顔色は。どうしたんだ。」
「別に、どうもしません。」
「ウソをつけ。オレにわからないとでも思うのか。いや、オレじゃなくたって、誰だってそう思うぞ。」
「ええ、市河さんにも、芦原さんにも、充分言われましたよ。でも、」
だからって、どうしろって言うんですか、そう続けようとした所を、横から追い討ちをかけるように
言われた。
「進藤と何があった。」
「どうしてそう思うんですか。」
「それ以外に理由があるのか?あいつ以外にキミをそんなにさせる人間が…」
「もし、そうだとしても、緒方さんには関係ありません。」
軽くムッとした様子で緒方が切り返した。
「関係なくはないだろう?大体、おまえは今の自分の状況がわかっているのか?
そんな状態で満足に戦えるとでも思っているのか?今日の碁だって…」


(45)
「わかってますよ。自分の状況くらい。でもそれはボクの問題で、あなたたちの問題じゃない。
どうして皆、そんなにボクに構うんだ!もう、うんざりだ!」
急に苛立ちが募って自棄になったように言い捨てると、緒方もまたアキラの腕を掴んで睨みつけ、
更に声を荒げた。
「ふざけた事を言うな。それならこの腕の細さは何だ。ロクに食べてもいないんだろう。どうもしないと
言い張るんなら、外見だけでもどうもしていないように取り繕え。それができないんなら放っておけ、
なんて偉そうな口をきくな。」
「放っておいてくれたっていいじゃないか!落ち込みたいときに落ち込んでる事さえ許されないって言
うのか?ボクの碁が荒れてるからって何だ。招待試合が何だ。それが何だって言うんだ。そんなの、
ボクが頼んだ事じゃない。行きたくて行くわけじゃない!」
「アキラ!」
緒方の呼びかけにキッと睨み上げたアキラの、非難するような眼差しに、緒方は思わず言い直した。
「アキラくん、」
アキラは目を閉じて俯いて、小さく、頑なに首を振った。
「…ごめんなさい。心配してくださってるのはわかってるんです。緒方さんも、皆さんも。
今度の事も、とても名誉な事だって、わかってます。ボクだって無様な負け方なんかする気はありま
せん。ボクのためにも、父のためにも、日本棋院の名のためにも。皆さんのお望み通り、勝って帰る
つもりでいますよ。いつだって、ボクは負ける気なんかない。それがボクの選んだ道で、ボクの立たさ
れた立場なんだ。だからボクの体調だって、ボク自身の問題です。わかってます。そのくらいは。」
言葉を切って緒方を見上げる。一瞬、正面から対峙した後に、またきゅっと唇を噛んで俯き、それから
硬い声で言った。
「わかっています。だから、もう、放っておいて下さい。お願いですから。」



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