病床小アキラ 44 - 47
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お父さんの話では、昔からよく熱を出してたみたいですよ――そんな風に緒方さんの秘密を
暴露しながら、アキラくんはポケットから鍵を取り出すと慣れた手つきでドアの鍵穴に差し込
みました。アキラくんよりも何歳も年上の芦原さんは、アキラくんよりも旺盛な好奇心で目を
輝かせながらその様子を見守っています。
「その鍵は?」
「ああ、緒方さんは一人暮らしだから、もしものときのためにスペアキーをお父さんが預かっ
ているんです。もしかしたら緒方さん、今眠ってるかもしれないから」
音を立てないようにそうっと開けたドアをくぐりながら、アキラくんは『騒がないでくださ
いよ』と芦原さんに小さな声でお願いしました。
「わかってるって」
人差し指と親指で○を作って、芦原さんはニヤリと笑います。
「アキラこそ、緒方さんの彼女がいてもちゃんと挨拶するんだぞ」
「……わかってるってば」
何度か入ったことのあるマンションの広いリビングは暗くひっそりとしていて、人が生活し
ているような雰囲気ではありませんでした。しかし、アキラくんは重箱をテーブルの上に降ろ
すと、スタスタと緒方さんの寝室に向かいます。芦原さんも慌てて後を追いました。
「緒方さん…?」
そうっと寝室のドアを開けると、暗い部屋の真ん中にある大きなベッドの中央部分がこんも
りと盛り上がっているのがわかります。
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「なんだ、女っ気ナシか…。情けないなァ緒方さん」
自分をすっかり棚に上げた芦原さんは、アキラくんの肩越しに室内を見渡して心底ガッカリ
したような情けない声を上げました。
「何を馬鹿言ってるんですか、芦原さん」
ブラインドの隙間からは夕暮れの日差しが差し込んでいます。起こさないように祈りながら、
アキラくんは緒方さんのおでこにそっと右手を乗せました。
「どう、熱はありそう?」
緒方さんの部屋にやたらとある間接照明を明るくしたり暗くしたりしていた運転手兼荷物持
ちの芦原さんは、その遊びにも飽きた様子で、熱帯魚の水槽を見ながら今度は鼻歌でも歌いだ
しそうな勢いです。
「――多分。それにしても、すごい汗だな…」
緒方さんの容体と、いつでもマイペースな芦原さんの様子の両方にアキラくんは眉を顰める
と、枕元にあった乾いたタオルでおでこに浮かんでいた汗を拭いはじめました。タオルを軽く
押し当てるようにしているせいか、相変わらず緒方さんが目を覚ます気配はありません。
「濡れタオルかなんか持ってこようか?」
「そうですね、お願いします」
いつのまにか隣に立っていた芦原さんはにっこりと笑って片目を瞑ると、『ついでにちょっ
と探検してこよ』と大きな声で独り言を言いながら廊下に消えていきました。
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開け放たれたままのドアを眺めて、アキラくんは溜息を吐きました。
タオルのついでが探検ではなく、真実はその逆であることは明らかです。
「相変わらずだなぁ…芦原さん」
アキラくんを含め、碁打ちというものは大概にしてマイペースな性格の人が多いようですが、
マイペース大王の芦原さんの天真爛漫さは誰にでも真似できるようなものではありません。
そしてその邪気の感じられない芦原さんの行動は、ほとんど人を不快にさせることがないの
です。緒方さんでさえ、自分の寝込み中に部屋を探検されたことを知っても、ゲンコツの一つ
くらいで許してしまえるのでしょう。
そんな近い未来の様子が、まるで画像のようにアキラくんの脳裏に浮かび上がってきます。
緒方さんの首や、開襟パジャマのボタンを外さない程度の範囲までタオルを押し当てて汗を
拭きながら、アキラくんはクスリと笑いました。
「なぁアキラ、勝手に氷とか持ってきたけど怒られると思う?」
案外、芦原さんは早く戻ってきました。緒方さんの汗を拭く手を止めて後ろを振り向くと、
白い洗面器を持った芦原さんが危うい均衡を保ちながら近づいてきます。
「大丈夫だと思いますよ、きっと。――ありがとうございます」
洗面器を恐る恐るといった様子で運んできた芦原さんは、サイドテーブルの上に洗面器をそ
うっと置いて、詰めていた息を大きく吐き出しました。
「なんのなんの」
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洗面器には氷水の中にタオルが浸してあります。アキラくんは冷たさに眉を顰めながらタオ
ルをきつく絞り、一度それを広げて両手で包みました。
不思議そうな顔で自分を見ている芦原さんに気づくと、アキラくんは再びタオルを畳み、両
手で挟んで、時には軽く叩いたりしています。
「冷たすぎて、緒方さんがビックリしちゃうといけないから」
「ビックリさせちゃってもいいんじゃない? 冷たいと気持ちいいよ〜〜」
「そうかなあ……」
アキラくんは首を傾げます。ですが、この洗面器いっぱいの氷も芦原さんの緒方さんへの心
遣いに違いありません。アキラくんは畳んだタオルをまた水に浸すと、ぎゅっと絞り、緒方さ
んのおでこに軽く乗せました。
すると、それまで穏やかだった緒方さんの眉根がきつく絞られます。
「あ」
「あらら、目が覚めちゃったねぇ緒方さん」
長い睫毛に縁取られた緒方さんの目がゆっくりと開くのを、アキラくんと芦原さんは息を潜
めて見つめました。
「……アキラくん……?」
2人にじっくり観察されながら、まるでお姫様のように目覚めてしまった緒方さんは、熱で
潤んだ眼差しをアキラくんに向けます。
「起こしちゃいましたね。具合はどうですか?」
「タオルが気持ちいいよ。――それよりもどうして……」
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