病床小アキラ 46 - 50


(46)
 開け放たれたままのドアを眺めて、アキラくんは溜息を吐きました。
 タオルのついでが探検ではなく、真実はその逆であることは明らかです。
「相変わらずだなぁ…芦原さん」
 アキラくんを含め、碁打ちというものは大概にしてマイペースな性格の人が多いようですが、
マイペース大王の芦原さんの天真爛漫さは誰にでも真似できるようなものではありません。
 そしてその邪気の感じられない芦原さんの行動は、ほとんど人を不快にさせることがないの
です。緒方さんでさえ、自分の寝込み中に部屋を探検されたことを知っても、ゲンコツの一つ
くらいで許してしまえるのでしょう。
 そんな近い未来の様子が、まるで画像のようにアキラくんの脳裏に浮かび上がってきます。
 緒方さんの首や、開襟パジャマのボタンを外さない程度の範囲までタオルを押し当てて汗を
拭きながら、アキラくんはクスリと笑いました。
「なぁアキラ、勝手に氷とか持ってきたけど怒られると思う?」
 案外、芦原さんは早く戻ってきました。緒方さんの汗を拭く手を止めて後ろを振り向くと、
白い洗面器を持った芦原さんが危うい均衡を保ちながら近づいてきます。
「大丈夫だと思いますよ、きっと。――ありがとうございます」
 洗面器を恐る恐るといった様子で運んできた芦原さんは、サイドテーブルの上に洗面器をそ
うっと置いて、詰めていた息を大きく吐き出しました。
「なんのなんの」


(47)
 洗面器には氷水の中にタオルが浸してあります。アキラくんは冷たさに眉を顰めながらタオ
ルをきつく絞り、一度それを広げて両手で包みました。
 不思議そうな顔で自分を見ている芦原さんに気づくと、アキラくんは再びタオルを畳み、両
手で挟んで、時には軽く叩いたりしています。
「冷たすぎて、緒方さんがビックリしちゃうといけないから」
「ビックリさせちゃってもいいんじゃない? 冷たいと気持ちいいよ〜〜」
「そうかなあ……」
 アキラくんは首を傾げます。ですが、この洗面器いっぱいの氷も芦原さんの緒方さんへの心
遣いに違いありません。アキラくんは畳んだタオルをまた水に浸すと、ぎゅっと絞り、緒方さ
んのおでこに軽く乗せました。
 すると、それまで穏やかだった緒方さんの眉根がきつく絞られます。
「あ」
「あらら、目が覚めちゃったねぇ緒方さん」
 長い睫毛に縁取られた緒方さんの目がゆっくりと開くのを、アキラくんと芦原さんは息を潜
めて見つめました。
「……アキラくん……?」
 2人にじっくり観察されながら、まるでお姫様のように目覚めてしまった緒方さんは、熱で
潤んだ眼差しをアキラくんに向けます。
「起こしちゃいましたね。具合はどうですか?」
「タオルが気持ちいいよ。――それよりもどうして……」


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 緒方さんにしては珍しい掠れ声です。長い間声を発していないからでしょう。アキラくんは
緒方さんの唇に人差し指を当てて『喋らなくてもいいですよ』と微笑みました。
「風邪をひいてしまったってお父さんから聞いて、芦原さんに連れてきてもらったんです」
 アキラくんの説明を受け、緒方さんは初めて芦原さんの存在に気づいたようです。ゆっくり
と顔を右から左へと動かして満面の笑みを浮かべた芦原さんを認めると、素早くアキラくんへ
と視線を戻しました。
「アキラくん」
「何なんですか〜その態度」
 緒方さんが被っているいかにも上質そうな羽毛布団の上に『の』の字を書きつつ、芦原さん
は頬を膨らませて拗ねてみせました。
「大体ね、タオルとか氷水とか、用意したのオレですよ」
 アキラくんは洗面器の中でタオルを濡らしつつ、緒方さんと芦原さんの様子を微笑んで見守
っています。この2人の兄弟弟子の掛け合いはアキラくんにとって新鮮で、それを目にするた
びにアキラくんは湧き上がる笑みを抑えることはできないのです。
「……そうなのか?」
 アキラくんは頷いて緒方さんのおでこに浮かんだ汗を拭うと、耳の後ろにタオルを当てました。
「そうですよ。冷たくて気持ちいいでしょう?」
 返事の代わりに深く息を吐き出すのは、心地良さの表れです。
 芦原さんが拗ねて書いていた『の』の字はもう消えていました。


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 水槽の給餌口から餌を撒くと、様々な色の魚がひらひらと水面に上がってきます。
「お、食べてる食べてる」
 餌を与えてもいいか訊ねたときに、『多くやりすぎるな』と緒方さんに厳命されていた芦原
さんですが、緒方さんがアキラくんに構われているのを確認すると、またいそいそと餌のケー
スを開けていました。
「……アキラくん、キミは帰った方がいい」
 目を閉じたまま、緒方さんは穏やかに口を開きました。冷たいタオルで緒方さんを癒してい
るアキラくんの手の動きがぴくりと止まります。
「――え?」
「対局がずっと立て込んでいて、疲れが溜まっているだろう。風邪を移したら良くない」
 緒方さんはゆっくりと目を開けると、とても大丈夫そうではない表情で『オレは大丈夫だか
ら』と続けました。アキラくんは一瞬込めていた肩の力をすっと抜きます。
「ボクなら大丈夫ですよ、まだ若いですし」
「………」
 そんなつもりはなかったのでしょうが、アキラくんの何気ない一言にデリケートな緒方さん
は心底傷ついてしまいました。


(50)
「『キミは』ってさぁ、緒方さん、俺には移してもいいんですか?」
「馬鹿は風邪を引かん」
 どうも緒方さんは芦原さんをからかって遊んでいるようにも見えますが、もしかしたら本気
なのかもしれません。
 そんな緒方さんにいちいちムキになる芦原さんは、『魚に餌、もっとあげようかな…』と呟
いて唇を噛み締めました。
「緒方さんこそ、ちゃんと治してくれなくちゃ。ボクに負けたときに『風邪ひいていて』なん
て言い訳されても困りますから」
 アキラくんが氷水の中でタオルを揺らすたびにカラカラと真冬には寒すぎる音が聞こえてき
て、もう若くはないらしい緒方さんは背筋をブルリと震わせます。
「もしかして勝つ気でいるのか、アキラ? 緒方さんに」
「当たり前でしょう。たとえ勝てなくても、全力で勝つつもりですよ」
 朗らかに笑いながらタオルを絞り、アキラくんは緒方さんの額の上にそうっと置きました。
「緒方さんが具合が悪いと、きっとボクはそこに付け込んでしまうから――だから、早く良く
なってくださいね」



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