誘惑 第二部 45 - 48
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「わかってますよ。自分の状況くらい。でもそれはボクの問題で、あなたたちの問題じゃない。
どうして皆、そんなにボクに構うんだ!もう、うんざりだ!」
急に苛立ちが募って自棄になったように言い捨てると、緒方もまたアキラの腕を掴んで睨みつけ、
更に声を荒げた。
「ふざけた事を言うな。それならこの腕の細さは何だ。ロクに食べてもいないんだろう。どうもしないと
言い張るんなら、外見だけでもどうもしていないように取り繕え。それができないんなら放っておけ、
なんて偉そうな口をきくな。」
「放っておいてくれたっていいじゃないか!落ち込みたいときに落ち込んでる事さえ許されないって言
うのか?ボクの碁が荒れてるからって何だ。招待試合が何だ。それが何だって言うんだ。そんなの、
ボクが頼んだ事じゃない。行きたくて行くわけじゃない!」
「アキラ!」
緒方の呼びかけにキッと睨み上げたアキラの、非難するような眼差しに、緒方は思わず言い直した。
「アキラくん、」
アキラは目を閉じて俯いて、小さく、頑なに首を振った。
「…ごめんなさい。心配してくださってるのはわかってるんです。緒方さんも、皆さんも。
今度の事も、とても名誉な事だって、わかってます。ボクだって無様な負け方なんかする気はありま
せん。ボクのためにも、父のためにも、日本棋院の名のためにも。皆さんのお望み通り、勝って帰る
つもりでいますよ。いつだって、ボクは負ける気なんかない。それがボクの選んだ道で、ボクの立たさ
れた立場なんだ。だからボクの体調だって、ボク自身の問題です。わかってます。そのくらいは。」
言葉を切って緒方を見上げる。一瞬、正面から対峙した後に、またきゅっと唇を噛んで俯き、それから
硬い声で言った。
「わかっています。だから、もう、放っておいて下さい。お願いですから。」
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アキラがくるりと背を向け、硬い足取りで立ち去ろうとするのを、一瞬見送りそうになってしまってから、
すぐにその後を追い、腕を掴んだ。
「待ちなさい、アキラくん。そんなだからこそ、放っておける訳が…」
掴まれて振り向いたアキラは、だが別の方向を向いて息を飲んだ。驚愕に目を見開いた顔は、見る
見る蒼ざめ、恐怖に歪んでいく。
そのアキラの表情に同じく緒方も凍りついた。彼にこんな顔をさせるのは一人しかいない。
知っている事実を再確認するかのようにゆっくりと振り向く。
アキラの視線の先に立ち竦む少年の、その名が緒方の口からこぼれる。
「進藤…」
その瞬間、アキラは緒方の腕をふりほどき、正に脱兎のごとく、その場を逃げ出た。
柱に張り付いたまま蒼ざめたヒカルは、けれどアキラを追おうとはせず、目を見開いて緒方を―たった
今までアキラのいた場所を―見つめたままだった。
「…進藤、」
呼びかけにビクリとヒカルの身体が動く。そして緒方から視線をそらし、ふらふらと歩き出した。床に目
を落とし、緒方を見ないようにしながら横を通り過ぎていくヒカルに、緒方はもう一度呼びかけた。
「進藤!」
だがヒカルはその呼びかけには応えず、足元だけを見たまま走り出した。けれどその足はアキラを追
いはしなかった。ただそこから逃げ去るように足は動き、馴染んだ道をそのまま走り、地下鉄の入り口
の階段を駆け降り、改札を通り抜け、丁度ホームに来ていた地下鉄に飛び乗った。
背後で扉が閉まり、電車が動き出しても尚、荒い息をつきながら、ヒカルは床を見つめたままだった。
地下を走る電車の轟音も、遠い耳鳴りのようにしか感じなかった。
手すりを握り締める手ががくがくと震えていた。足がだるくてそのまま床に座り込んでしまいたい。心臓
がばくばくとうるさい。息が苦しい。何もかもが、何だかもう真っ黒で、何も考える事なんかできない。
ずっと頭の中で呼びつづけていた、誰よりも恋しい相手の、その名を呼ぶ事も、もう、できない。
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そのまま何も考えずに機械的に重たい足を運び、家に戻って、自室に入ると、どさりとベッドに転がり、
仰向けになって天井を見つめた。
「塔矢…」
それでも無意識に口をついて出てきてしまった名前に、ヒカルの顔が歪む。ぽろりと涙が一粒こぼれ
落ちた。
きっと、名前を呼んでしまうのも、もう習慣になってしまっているから。
呼んでも応えは返ってこない事はわかってるのに。
「とうや」
わざと意識的にはっきりと、その単語を口に出して見た。
けれど、呼ぶんじゃなかった、と言ってしまってから後悔した。名前を呼んでしまえば目にした映像が
よみがえってしまう。
今日の塔矢。変わらずに目を惹き付ける、凛とした姿。サラリと揺れる黒髪。緒方先生と一緒にいた
塔矢。オレを見てびっくりして、真っ青になって逃げていった塔矢。
後を追いかけなかった事が、今頃になって悔やまれてしょうがなかった。
追いかけていたら何か変わっていただろうか。もう一度あいつを捕まえられたんだろうか。
どうして逃げたんだ。そして、どうしてオレは追いかけられなかったんだ。
オレは…オレは、塔矢、まだ、おまえが好きなのに。
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そこから逃れようという事しか考えていなかった。
小雨の降る中、傘も差さずに棋院を飛び出て、通りに出たときに見つけたタクシーに乗り込み、後ろを
見ないまま発信させた。行き先だけをなんとか告げ、それから手で顔を覆ってうずくまった。釣りも受け
取らずにタクシーを降りると、よろけそうになる足元をなんとかこらえながら自分の部屋へ向かう。震え
る手で鍵を開け、乱暴に音を立てて中に入り、ガチャッと鍵を閉める。さらにドアチェーンをかけ、靴を
脱いで部屋の中に入るとカーテンをザッと閉め、そして薄暗い部屋の中のベッドに倒れこんだ。
ベッドにうつ伏せに臥しながら、握り締めた拳を顔の脇に振り下ろした。
「畜生!」
何に怒っているのかわからない。けれど多分、自分自身に。
けれど殴りつけても手応えの無いマットレスに余計に苛つき、更に乱暴に拳を叩き付けた。
「くっ…」
何かをこらえるように奥歯を噛みながら枕に顔を埋め、振り下ろした拳でシーツを握り締めた。
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