白と黒の宴 46 - 50
(46)
やがて緒方が現われ正面に腰を下ろした。僅かに風が動いていつもの煙草の残り香がした。
緒方と対峙し感情が削げた視線を向けられた時、ドクンとアキラの身体の奥が脈打った。
あの時と同じように無表情で征服しようとする無言の圧力がそこにあった。
その視線に応えるようにアキラも睨み返す。
「…盤上では好きにさせません。」
周囲に聞こえぬ様小さく呟いたアキラになお緒方の表情は変わらなかった。
緒方の強さはアキラも良く知っている。
その上自分がどのように囲碁に向き合い習得していったかをつぶさに見られている相手である。
交互に石を置きながら相手の出方を伺う。
緒方はなかなか仕掛けて来なかった。アキラの常勝パターンを分かっていてあえてそちらへ
導くような石の運びだった。
アキラは最初の間は一石置く度に緒方の目を見返した。そうする事で自分の中の戦意に
火を点けるつもりだった。
「クールなようでいて顔に出る」緒方の中に多少は自分を怖れる気配が見出せないかと望んだ。
弟弟子ではなく、一人の人間として、手強いライバルとして見つめる目が欲しかった。
あの夜、体内に熱を吐き出され終えてしばらくの間身体を繋げたまま強く抱きしめられた時、
「…いつかはこうなると思っていた。それが怖かった…。」
意識が遠のく中で緒方がそう呟いていたのを覚えている。それは自分と身体を交える行為
のみを指すのではなく、今日の碁において真正面にぶつかる事を含んでいたように聞こえた。
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だが、アキラが期待した動揺も戦意も一向に緒方が表に出さないまま打ち掛けとなった。
まるでそこにアキラが存在していないように相手は一瞥する事もなく退室して行った。
さすがにアキラも少なからず動揺を覚えた。
「…」
その場でしばらく盤面に視線を下ろす。まずまずの出来だと思う。
これまでは緒方に彼の碁を打たせていない。自分がそれを押さえ切って来た。
無気味だった。
自分を知られている分自分も緒方を誰よりもよく知っているつもりだった。
他の人が知らない部分まで。
だが今の緒方はまるで今まで出会った事のない者との対局をしているような様子だった。
気持ちで怖れているつもりはないが冷たい汗が背中を伝わる。
理屈ではなく肉体が戦況に反応するのだ。
ふと、同じく今日この棋院会館の対局室で戦っているはずのヒカルの事が頭に浮かぶ。
一柳との一戦を見に来ていたように今日も手合いがなければ自分と緒方との様子を
覗きに来ていたはずだ。
ヒカルに会いたい。
そう思うそばからアキラは首を振って自分の希望を否定する。
自分はヒカルに道筋を与える者だ。こちらからヒカルを追ってはならない。ヒカルに追わせるのだ。
だからなんとしてもリーグ内に踏み留まりたい。今日の一戦は落とせない。
自分の実力を出し切れば「今の」緒方に勝てなくもないはずだ、とアキラは盤を見据えた。
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だが対局が再開されて間もなくアキラは自分の予測が甘かった事を思い知らされた。
何の予兆もなく緒方の反撃は始まった。
針の穴のような隙間を突かれた一手から各局地で陥落したと思った緒方の石の砦が差す毎に
息を吹き返して行く。姿を変えて意味を持ってアキラの石を凌駕していく。
「くっ…!」
それでもまだアキラには逃げ切る自信があった。
良くて対等に並ぶまでと読み切っていた。
楽に勝てるなどと最初から考えていない。その為にも念には念を入れて右上と中央を最初に
固めて来た。そこはどうあっても崩されないはずだ。
だが前半の時と違って今度は緒方の目を見る事が出来なかった。
どうしようもなく怖かった。
じわじわと手足を拘束されていつ本体へ、そしてその奥深くへと攻め込まれるかもしれない。
格の違いというものを肌に感じないではいられなかった。
ヒカルと、ネットでsaiと戦った時もある種の格―品格を感じた。
それは勝つ事のみを最終目標としない、ある意味理想的な文字どおり高みを目指す碁だ。
打つ事によって自分と相手が供に何かを得ようとする生命的な熱さがあった。
だが今の碁は違う。
そこにあるのはただ相手の死を、二度と歯向かう気力をも奪い取ろうとする無慈悲な碁だ。
そこに息吹くものはない。無機質に相手の体熱を奪い合うものだった。
二冠という頂点を知る者の凄みだった。
固めた右上と中央が逆に足枷となってそれ以外への攻防が後手に回った。
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一柳や他の高段者らと戦って勝ち抜きそれなりに自信があった。
だが同門である事と、身体を重ねた相手である事を一切遮断して緒方はここに臨んで来た。
たった一日で全ての記憶を抹消して来たように。
僅かでも自分が主導権を握っていたかのように思っていた事を恥じた。
それでも考えようとした。少しでも盛りかえす可能性があるならばと。
その時アキラは緒方の目を見てしまった。
瞬時に感情のない冷たいあの目の下で自分がどのように組み敷かれ緒方がしたいままに
身体を押し開かれたかという記憶が鮮明に蘇った。
『緒方さん…やめ…』
あの瞬間に自分が上げた悲鳴と身体の中心を駆け抜けた衝撃―目の前が真っ白になるような
凄まじい激痛と同時に背骨を電流が走るような快感に襲われ一気に到達した時の記憶。
アキラの指先が震え、挟んだ石が盤上に落ち、乾いた音をたてた。
その非礼を詫びようと頭を下げたままアキラは小さく呻いた。
「…負けました。」
続けられなかった。身体が別の事を望み始めていた。
今の自分ではまだ緒方には勝てない。その事実だけはっきりすれば、
二人にとってこの対局はもう重要ではなくなっていた。
週間囲碁や新聞の記者らはアキラに質問を浴びせかける。敗者であっても彼等にとっての
主役はあくまでアキラであった。
だがアキラには答えることが出来なかった。自分が緒方より弱いから負けたのだ。
彼等が他にどういう理由を聞きたがっているのかアキラには分らなかった。
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「…アキラくんは全力で戦ったよ。その上で負けたのだ。」
アキラに代わって緒方がそれを彼等に答えてくれた。
もう一度アキラは緒方を見た。精神力で全てを遮断し打ち切った今は緒方のその目に
人間的な感情が宿るのが見えた。
その目を見た時、アキラは緒方が望んでいるものを敏感に察知した。
緒方が合図を送るようにアキラを一瞬見つめ対局室を出て行くとアキラもその後を追った。
「…緒方さん…!」
車に乗り込もうとする緒方に声をかけると緒方が振り向き、視線で指示する。
アキラが助手席に乗ると車はエンジン音を響かせて急発進した。
アキラの心臓は激しく鼓動していた。その振動が指先まで伝わりそうだった。
そして緒方からもそれは伝わって来そうだった。
あの場所にいた誰にも分らない、二人だけに通じ合う心音はすでにアキラが
投了した時点から共鳴し合っていた。
緒方のマンションに着き、玄関のドアを閉めた瞬間から二人は唇を重ね合い抱きしめ合っていた。
アキラが緒方の眼鏡とネクタイを外すのと同様に緒方もアキラのネクタイを緩め、シャツの
ボタンを外した。
アキラもまた緒方のシャツのボタンを外そうとするのを緒方が止めさせて壁に押し付け、
アキラのズボンのベルトを外して一気にブリーフごと引き下げると片足を抱え上げた。
「っあ…!!」
緒方は自分のズボンのベルトを外し必要なだけズボンを下げると立ったまま
壁に押さえ付けたアキラを貫いた。
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