白と黒の宴 6 - 10


(6)
手にしたティーカップの中の茶褐色の水面を見ながらアキラはもう一度ため息をつき、
髪を軽くかきあげた。そして緒方の視線がこちらに向いたままなのに気がついた。
「…ボクの顔に何かついてますか?」
「やはり顔色が良くないな。それに少し痩せたようだ。ちゃんと食べているのか?」
「食べてますよ。緒方さん、いつからそんな心配性になったんですか?」
「それならいいんだ。独りもの同士、久しぶりに飯でも一緒に食うか。ごちそうしてやる。」
「おごってもらっても対局の手は緩めませんよ。」
本音を言えばほとんど食事が喉を通らない日々が続いていた。今でも、胃の辺りが少し痛む。
飲み物だけを流し込むのが精一杯だった。
それでも背筋を伸ばし、緒方に続いて席を立ち帰り支度を始める。
「あ、若先生、よかった、今日いらしていた。」
その時碁会所に入って来たその常連客を見て、アキラは青ざめた。
社をここに連れて来た男だ。
「すみません、若先生。甥っこの対局につき合ってくださったばかりか、見送りまでなさって
くれたそうで…ありがとうございました。」
男はそう言って深々とアキラに頭を下げた。
「いえ…」
表情を強張らせてアキラは足早にその男の脇を通り過ぎた。
「甥っこと対局…?」
その言葉に関心を示した緒方に市河が説明した。
「大阪弁の男の子だったわ。進藤君以来よ、同い年位の子とアキラ君がここで打ったのって。」


(7)
「…ふうん。」
何かを問いた気に緒方がちらりとアキラの顔を見る。
「面白い子だったわよ。体が大きくて男っぽくて。アキラ君と対局を続けるために
新幹線の切符まで破いちゃって…」
「ほんの、軽い手合わせですよ。」
アキラは市河が緒方にそれ以上話すのを遮断するように言うと碁会所のドアを出て、
エレベーターのボタンを押した。
エレベーターはすぐにその戸口を開けた。緒方も多少慌てて追い付きアキラに次いで中に入る。
コートに袖を通さず固く握りしめているアキラを緒方は黙って見つめるが特に何も聞いて来ない。
よけいな事は言わない方がいいだろうとアキラは思った。
特に言葉を交わす間もなく下に着き、表に出た。
アキラはいつもの緒方が車を停めている場所に向かいかけた。が、緒方は別の方向に歩み出した。
「緒方さん?どちらへ…」
「確かこの近くだったはずだな。」
緒方が進む方向について行きながら、アキラは動揺した。あの事務所に行くつもりなのだ。
「アキラくんは新しい事務所をもう見たのかい?」
「いえ!、まだ…」
思わずそう答えてしまってアキラは後悔した。
「中国棋院に関する資料を借りたいんだ。事務所に置いてあると聞いてね。それを取りにいくだけだ。」
アキラは迷った。一人先に駐車場に行くべきか、それとも一緒に行くべきか。


(8)
あの事があった次の日、アキラは熱っぽくあちこち痛む体で午前中に事務所に行った。
「行為」の痕跡を消すためだ。
和室の畳の上でようやく社が体を起こして自分の体内から抜き出た後、彼は自分の
スポーツバッグからタオルを取り出して自分とアキラの体の汚れを拭き取った。
「あかん、時間ないわ。」
それ以外の後始末もそこそこに部屋を出たのだ。
体の内と外に生々しく感触が残っているのにその場所に戻る事はアキラにとって辛かった。
研究会の時と違ってゴムを着けてもらえなかった為に夜中に何度もトイレに通い、殆ど眠れなかった。
母親に気付かれないよう、二つあるトイレの客用の家の奥にある方を使ったが、
それでも一度母親が起きて来て心配そうに声を掛けられてしまった。
事務所に入り和室の戸を開けた時、一瞬そこに体を繋げ合い喘ぐ社と自分の姿があるように感じた。
自分達が放ったものの臭いが漂っているようでに吐き気を覚えた。
窓を開けて換気をし、畳の上が汚れていないか確認した。本棚の中で崩れていた本を揃えた。
大丈夫だと思う。あの場所であった事は誰にも気付かれないはずだ。たとえ勘の鋭い緒方でも。

前を行く緒方にはそんなアキラの表情は分からない。静かな奥まった道に入り、その建物に入る。
鍵は緒方も持っていた。事務所は緒方にも解放される事になっている。緒方は身内同然と言っていいだろう。
行洋が単独で中国に行く間何かあった時は母親も緒方に相談する事が多かった。
それだけに、今回の事も緒方には絶対に知られたくないとアキラは思っていた。
ある意味、両親やヒカルに知られるより辛いかもしれない。


(9)
アキラにとって緒方は特殊な存在だ。兄として父として、師として、つかず離れず常に自分を導いてくれた。
言葉で言わなくても緒方がどんなに自分の事を大切に思ってくれているかもアキラは知っている。
ドアを開けると緒方は真直ぐに目的の物がある机の上の書類の箱に向かった。
「ああ、これだ。」
ちらりと中身を見て、書類の封筒を取り出すとまた真直ぐ出入り口のところに立つアキラの方に向かって来る。
和室の方に関心を向ける様子はない。
「悪かったな、アキラくん。さて、何を食おうか。」
アキラが安心しかけたその時、緒方が床の隅に落ちていた紙片に気付いて拾い上げた。
「何だ、これは。」
何気なくアキラは緒方の手のその紙片を見た。その瞬間体から血の気が引いた。
新幹線のチケットだった。
破られた右隅の部分で新大阪の文字が見てとれる。
アキラは必死で碁会所で社がチケットを破いた時の事を思い返した。
アキラの目の前で社はチケットを破いた。そんなに細かく裂いた訳ではない。
一部はひらりと床に落ちたかもしれない。社は無造作にそれを学生服のポケットに突っ込んだ…。
和室から出ようとしたアキラを社が捕らえて後ろに引き倒した。ここで揉み合った。

「アキラくん!?」
自分では普通に立っているつもりだった。
気がつくと緒方の腕の中に倒れこんでいた。正確には、目眩をおこしたように膝を崩しかけたアキラを
緒方が抱きとめたのだ。


(10)
大きな手が目まで覆うようにアキラの額に当てられた。続いて耳の下辺りの首にも。
「…食事どころじゃなさそうだな。」
アキラの体を抱きとめて初めて緒方はアキラの体温がひどく高い事を感じ取った。
「車を下に持ってくるからここで待っていなさい。」
アキラは驚いたように緒方の顔を見上げた。
「そんな、…大丈夫ですよ、ボクは別に…」
緒方の体から離れようとするアキラの両腕を緒方が掴んだ。
「ここで待っているんだ。」
感情を見せない薄い色の瞳でぴしゃりとそう言われてしまうとアキラに反論の余地はなかった。
緒方が部屋を出て行った後、アキラは壁にもたれ掛かって自分の腕で自分の体を抱いた。
寒気がしてきた。
“オレがあたためてやろか…”
背後の壁から腕が伸び出て羽交い締めにされるような気がした。自分はまだこうして社に
捕らえられたままだ。彼がどんなに硬く熱く自分を突き上げたかはっきり覚えている。
死に物狂いで抵抗すれば、逃げる事が出来たかも知れない。だが自分はそうしなかった。
虫が這い回るような研究会の連中の感触を忘れたかった。
そして実際、社に抱かれた後はそれらが消えた。
だが今度は荒々しい激しい感触に悩まされている。そして今は収まっているが、また
いつ激しく体内で燃え出すものが現われるかもしれない。もしかしたらもう始まっているのかもしれない。
別の相手が必要なのだ。社の痕跡を消すためには…、そしてアキラは首を振った。
「なにを、バカな事を考えているんだ、ボクは…」



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