白と黒の宴 11 - 15


(11)
緒方はすぐに戻って来た。壁にもたれ掛かったまま動けないでいたアキラを
もう一度肩を抱くように引き寄せ、事務所のドアに鍵をかけて歩き始める。
アキラは遠慮して離れようとした。だが緒方は力を入れてアキラの体を強く引き寄せる。
歩く内にアキラは体重を緒方に預けるようになった。
緒方の広く厚い胸板に触れているとなんだかすごく安心できた。
少なくとも今は社の腕の幻影から引き剥がしてくれていた。

助手席のシートを幾分倒し加減にして、流れていく夜の街のネオンをぼんやりと眺める。
車は自宅ではなく、緒方のマンションに向かっていた。
「そんな状態の君を一人にさせておけない。」
本当は緒方は夜間も開いている病院にアキラを連れて行こうとした。アキラは必死にそれを断った。
体を見られるのだけはどうしても避けたかった。
あまりにアキラが嫌がったため、その代わり緒方の部屋で薬を飲んで休むことになったのだ。
「…どうりで何か様子がおかしいと思った。具合が悪いのに、わざとそれを誤魔化すように振る舞っていたのだろう。
まったく君は…」
緒方は片手で煙草を取り出しかけて、すぐにそれをしまう。
「元名人もそうだったよ。ギリギリまで我慢して、突然40度もの高熱を出して
倒れた事があった。君がまだ赤ん坊だった時かな。」
「すみません…」


(12)
緒方のマンションの部屋に入るのはこれが初めてだった。
その機会も必要もない位緒方の方が頻繁に塔矢家を訪れていた。
あまり生活感のない無機質な空間は緒方らしいと言えるが、淋し気にも感じた。
水槽の中で揺らめく熱帯魚の影が無彩色の空間を僅かに慰めているようだった。
「まずは、多少胃の中に何か食べ物を容れてもらおうか。レトルトの類いしかないが。」
アキラをソファーに座らせて緒方は台所に立った。
明らかに緒方は腹を立てている。見ていれば分かる。無理もない。
アキラはもう何もかも緒方に任せようと思った。目を閉じるとぐらりと地面が
揺れ動く感覚がする。二つのマグカップにクリームスープを入れてレンジで
温めたたものを緒方が持って来てアキラに渡す。
「熱いから気をつけろ。」
「…ありがとうございます。」
それを両手で受け取る。ふうと冷ますように息を吹き掛けて一口飲む。
どんなに自分の体が冷えきっていたかアキラは自覚した。
「味は、感じるか。」
自分の分はテーブルに置いたまま緒方は部屋の一角の棚の引き出しから
薬を探している。
「とても美味しいです。」
「…そうか。ならいいんだ。」
目的の薬をテーブルに置いてアキラを見遣る緒方の目の光が和らいだように感じた。
飲み物以上の温かさを感じてアキラは少しずつ落ち着きを取り戻していた。


(13)
恥ずかしい、とアキラは思った。ヒカルに会えない事で精神的にバランスを失い、
その結果こうして緒方に迷惑をかけてしまっている自分が。
碁打ちとして高みをヒカルと供に目指そうと思っていた。ひたむきに。それがこんな…。
「薬を飲んだらこれに着替えなさい。」
まだ新品のパジャマを緒方は出して来た。一目見て女モノと分かる淡いイエローの
ストライプ柄のMサイズで、アキラは当惑した。
「…これ…」
「それしかないんだ。」
おそらく誰かがいつかここでそれを着て緒方と夜を過ごす意味で用意されたものなのだろう。
そして気の毒な事にどちらの都合かは分からないがそれが叶わなかったと。
緒方が女性と一緒の所を見かける事は時々あった。ただ、その相手は不特定だった。
人の顔を覚えるのが得意ではないアキラにもそれは分かった。
緒方は結婚しないんだろうか、とアキラはふと考え、余計な事だな、と首を振った。
緒方にとっての女性とは一時の心の隙間を埋める色彩程度のものであればよいのだろう。
彼もまた、真の安らぎを戦場にしか見出せない白と黒の戦火に捕われた孤独な兵士なのだ。
セーター以外の衣類は洗濯機に入れるよう緒方に言われた。どちらでもよかったのだが、
ついでがあるからと言われた。
緒方は自分用にワインを棚から出して夕食代わりのハムやチーズを冷蔵庫で物色している。
そうして脱衣所の中で服を脱いだアキラだったが、ふと洗面台の鏡に映った自分の姿が目に入った。
ガタッと小さな物音がしたような気がして緒方が脱衣所の方に声を掛けた。


(14)
「大丈夫かい、アキラくん。」
「…何でもありません。」
脱衣所の中の洗面台に体重をかけるようにして、バランスを保つ。
パジャマをはおって封じるように前のボタンを留める。
熱のせいだろうか。社の残した痕跡がやけにくっきり浮かび上がっているように感じた。
まるでアキラの何かをあざ笑うかのように。少し指が震えた。
着替えが済み、薬を飲み終えたアキラを緒方は寝室のベッドに連れて行った。
「緒方さんは?」
「最近はソファーで寝る事の方が多い。」
実際、ソファーの脇に空の酒瓶と供に枕代わりになりそうなクッションや掛け毛布が
無造作に置かれていた。
寝室は間接照明とベッド以外読みかけの本や雑誌がラック付近に散らばっている程度の
殺風景なものだった。
奥一面のブラインドが閉じている窓もどこか冷たい雰囲気を強調している。
意外に煙草の臭いはしなかった。リビングが余りに臭ったという事もあるが。
その人の部屋に入ると言う事はその人の内面を感じるような事だとアキラは思った。
温かいが、冷たい。冷たいが、優しい。
「いろいろありがとうございました。おやすみなさい。」
「…おやすみ。」
慣れない会話をするようにどこかぎこちなく緒方は答え、寝室のドアを閉めた。


(15)
ベッドに入ると眠気はすぐにやって来た。両手を広げても淵に届かない、背伸びをしても
足の出ない大きさにかえって落ち着かない感じがしたが。
自分は疲れているのだ。早く体調を整え、万全の構えで緒方と戦うのだ。
それが今夜の事に対する緒方への返しとなるのだとアキラは思った。
目を閉じ、深く呼吸をする度に体が闇に沈みこんで行く。
深く、深く、夢も見ない程深く眠りたい。そう願った。
だが、それは叶えられなかった。

軽くシャワーを浴びてガウンを羽織り、ワイングラスを脇に置いて緒方はパソコンに向かっていた。
ちらりと時計を見る。0時を少し回ったところだった。アキラが寝室に入った後一度だけそっと覗いてみた。
その時はアキラはスースーと穏やかな寝息を立てていた。緒方はしばらくアキラのその寝顔に見入っていた。
少しだけ額に汗が浮いていた。そっと緒方はガウンの袖で拭き取ったがアキラは何の反応も
見せなかった。
緒方は指先で額に張り付いたアキラの前髪に触れようとして、止めた。

「少し早いが、オレも寝るかな…。」
もう一度アキラの様子をうかがおうかどうか迷ったが、メガネを外してテーブルに置き、
そのままソファーに向かう事にした。
その緒方の耳に、小さく呻くような声が聞こえた。



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