誘惑 第二部 46 - 50
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アキラがくるりと背を向け、硬い足取りで立ち去ろうとするのを、一瞬見送りそうになってしまってから、
すぐにその後を追い、腕を掴んだ。
「待ちなさい、アキラくん。そんなだからこそ、放っておける訳が…」
掴まれて振り向いたアキラは、だが別の方向を向いて息を飲んだ。驚愕に目を見開いた顔は、見る
見る蒼ざめ、恐怖に歪んでいく。
そのアキラの表情に同じく緒方も凍りついた。彼にこんな顔をさせるのは一人しかいない。
知っている事実を再確認するかのようにゆっくりと振り向く。
アキラの視線の先に立ち竦む少年の、その名が緒方の口からこぼれる。
「進藤…」
その瞬間、アキラは緒方の腕をふりほどき、正に脱兎のごとく、その場を逃げ出た。
柱に張り付いたまま蒼ざめたヒカルは、けれどアキラを追おうとはせず、目を見開いて緒方を―たった
今までアキラのいた場所を―見つめたままだった。
「…進藤、」
呼びかけにビクリとヒカルの身体が動く。そして緒方から視線をそらし、ふらふらと歩き出した。床に目
を落とし、緒方を見ないようにしながら横を通り過ぎていくヒカルに、緒方はもう一度呼びかけた。
「進藤!」
だがヒカルはその呼びかけには応えず、足元だけを見たまま走り出した。けれどその足はアキラを追
いはしなかった。ただそこから逃げ去るように足は動き、馴染んだ道をそのまま走り、地下鉄の入り口
の階段を駆け降り、改札を通り抜け、丁度ホームに来ていた地下鉄に飛び乗った。
背後で扉が閉まり、電車が動き出しても尚、荒い息をつきながら、ヒカルは床を見つめたままだった。
地下を走る電車の轟音も、遠い耳鳴りのようにしか感じなかった。
手すりを握り締める手ががくがくと震えていた。足がだるくてそのまま床に座り込んでしまいたい。心臓
がばくばくとうるさい。息が苦しい。何もかもが、何だかもう真っ黒で、何も考える事なんかできない。
ずっと頭の中で呼びつづけていた、誰よりも恋しい相手の、その名を呼ぶ事も、もう、できない。
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そのまま何も考えずに機械的に重たい足を運び、家に戻って、自室に入ると、どさりとベッドに転がり、
仰向けになって天井を見つめた。
「塔矢…」
それでも無意識に口をついて出てきてしまった名前に、ヒカルの顔が歪む。ぽろりと涙が一粒こぼれ
落ちた。
きっと、名前を呼んでしまうのも、もう習慣になってしまっているから。
呼んでも応えは返ってこない事はわかってるのに。
「とうや」
わざと意識的にはっきりと、その単語を口に出して見た。
けれど、呼ぶんじゃなかった、と言ってしまってから後悔した。名前を呼んでしまえば目にした映像が
よみがえってしまう。
今日の塔矢。変わらずに目を惹き付ける、凛とした姿。サラリと揺れる黒髪。緒方先生と一緒にいた
塔矢。オレを見てびっくりして、真っ青になって逃げていった塔矢。
後を追いかけなかった事が、今頃になって悔やまれてしょうがなかった。
追いかけていたら何か変わっていただろうか。もう一度あいつを捕まえられたんだろうか。
どうして逃げたんだ。そして、どうしてオレは追いかけられなかったんだ。
オレは…オレは、塔矢、まだ、おまえが好きなのに。
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そこから逃れようという事しか考えていなかった。
小雨の降る中、傘も差さずに棋院を飛び出て、通りに出たときに見つけたタクシーに乗り込み、後ろを
見ないまま発信させた。行き先だけをなんとか告げ、それから手で顔を覆ってうずくまった。釣りも受け
取らずにタクシーを降りると、よろけそうになる足元をなんとかこらえながら自分の部屋へ向かう。震え
る手で鍵を開け、乱暴に音を立てて中に入り、ガチャッと鍵を閉める。さらにドアチェーンをかけ、靴を
脱いで部屋の中に入るとカーテンをザッと閉め、そして薄暗い部屋の中のベッドに倒れこんだ。
ベッドにうつ伏せに臥しながら、握り締めた拳を顔の脇に振り下ろした。
「畜生!」
何に怒っているのかわからない。けれど多分、自分自身に。
けれど殴りつけても手応えの無いマットレスに余計に苛つき、更に乱暴に拳を叩き付けた。
「くっ…」
何かをこらえるように奥歯を噛みながら枕に顔を埋め、振り下ろした拳でシーツを握り締めた。
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外で誰かの足音が聞こえる。
けれどその足音はそのままアキラの部屋の前を通り過ぎ、奥の部屋へと向かっていったようで、小さな
チャイムの音がして、それから玄関のドアが開き、また閉じる音がした。
自分を訪ねてきた訳ではない、けれども誰か人の気配に呼ばれたようによろよろと立ち上がり、ゆっくり
と玄関に向かい、チェーンを外し鍵を開け、ドアを開けた。
開いた先は夕暮れの薄闇をぼんやりとした灯りが照らしているだけで、そこに誰かがいるはずなんてな
かった。誰もいる筈なんてないのに、いない事を確認しながら、それでも小さな声で、呼びかけてしまっ
ていた。
「進藤…?」
応えのない闇に向かって、もう一度だけ、その名を呼んでみた。
「…しんどう…?」
自分の声が情けないくらい震えている。今にも泣き出してしまいそうじゃないかと、半分妙に冷静に自分
自身を観察している自分がいた。それでもボクは追ってきて欲しいなんて思ってたのか、と。
誰も入って来れないようにと厳重に戸締りをし、誰が来ても応えるつもりなんかなかったくせに。
それでも。
それでも、彼がボクを追ってきてあのドアを叩く事を、チャイムを鳴らし、ドアをガンガンと叩き、「塔矢!」
と呼ぶ彼を、ボクは期待してた。
あんな風に彼から逃げ、拒絶を装いながら(ああ、そうだ!装っただけだ!)、それでも期待してた。
誰もいない、ただ音もなく霧雨の降りしきる夕闇を、未練がましげにもう一度眺めた後、ゆっくりとドアを
閉め、静かに鍵をかけなおす。
そのまま玄関脇のカベにもたれて、そのままずるずるとそこに腰を降ろしてしまった。
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部屋の奥で何か音が聞こえる。
携帯電話だった。一瞬、このまま放っておこうかとも思ったが、それでも何とか立ち上がり、電話に出た。
相手は市河だった。
そういえば、今日は指導碁の予約が入っていた。手合いが何時に終わるかわからないから断りたかった
のに、どうしてもと言われて断りきれなかった。それなのにアキラがいつまでも現れないから電話をかけ
てきたらしい。侘びを言って、30分後にはそちらに着けるから、と伝えてもらうよう頼んだ。
すぐに行きますから、と言っておきながら、本当はあそこには行きたくない。
あそこは優しい人たちばかりで、ボクは窒息しそうになる。
その現れ方が違うにしても、みんなボクを好きで、子供の頃から可愛がってくれて、応援してくれて、
ボクが勝ったといえば自分のことのように喜んでくれる、そんな人たちばかりだ。そして何かボクの身に
異変でも見つければ親身になって心配してくれて。それを嬉しいとこそ思え、それなのに、正にその事を
鬱陶しいと思ってしまうのはなぜなんだろう。
もう、うんざりだ。何もかもが。
もう、何もかも全てを投げ出してしまいたい。
もう、何もしたくないのに、それでもしなければならない雑事が追いかけてくる。
旅行の準備だってそろそろ始めないといけない。
何だってこんな時に、国を背負って戦うような真似をしなければならないんだ。
勿論基本は個人対個人の戦いだけど、セレモニーのような試合とはいえ、国際試合である以上、日本
という国を意識せずにはいられない。ボクは日本棋院に所属する棋士で、世界的にも名を馳せた塔矢
行洋の息子で、それはどうやったって消せはしない。そもそも、ボクがあの父の息子でなければこんな
試合はお膳立てされなかった。
わかってる。ボクはプロなんだから、ボクはボクのためだけでなく、棋院のためとか、日本碁界のため
とか、そういうもののために、戦わなければならないって事くらいは。
体調管理なんか、プロとして当然の事だ。プロだったら個人的な事情なんか表に出すな。その通りだ。
でも、わかっていたって出来ない事もあるんだ。だからせめてボクを放っておいてくれ。
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