誘惑 第二部 49 - 52


(49)
外で誰かの足音が聞こえる。
けれどその足音はそのままアキラの部屋の前を通り過ぎ、奥の部屋へと向かっていったようで、小さな
チャイムの音がして、それから玄関のドアが開き、また閉じる音がした。
自分を訪ねてきた訳ではない、けれども誰か人の気配に呼ばれたようによろよろと立ち上がり、ゆっくり
と玄関に向かい、チェーンを外し鍵を開け、ドアを開けた。
開いた先は夕暮れの薄闇をぼんやりとした灯りが照らしているだけで、そこに誰かがいるはずなんてな
かった。誰もいる筈なんてないのに、いない事を確認しながら、それでも小さな声で、呼びかけてしまっ
ていた。
「進藤…?」
応えのない闇に向かって、もう一度だけ、その名を呼んでみた。
「…しんどう…?」
自分の声が情けないくらい震えている。今にも泣き出してしまいそうじゃないかと、半分妙に冷静に自分
自身を観察している自分がいた。それでもボクは追ってきて欲しいなんて思ってたのか、と。
誰も入って来れないようにと厳重に戸締りをし、誰が来ても応えるつもりなんかなかったくせに。
それでも。
それでも、彼がボクを追ってきてあのドアを叩く事を、チャイムを鳴らし、ドアをガンガンと叩き、「塔矢!」
と呼ぶ彼を、ボクは期待してた。
あんな風に彼から逃げ、拒絶を装いながら(ああ、そうだ!装っただけだ!)、それでも期待してた。

誰もいない、ただ音もなく霧雨の降りしきる夕闇を、未練がましげにもう一度眺めた後、ゆっくりとドアを
閉め、静かに鍵をかけなおす。
そのまま玄関脇のカベにもたれて、そのままずるずるとそこに腰を降ろしてしまった。


(50)
部屋の奥で何か音が聞こえる。
携帯電話だった。一瞬、このまま放っておこうかとも思ったが、それでも何とか立ち上がり、電話に出た。
相手は市河だった。
そういえば、今日は指導碁の予約が入っていた。手合いが何時に終わるかわからないから断りたかった
のに、どうしてもと言われて断りきれなかった。それなのにアキラがいつまでも現れないから電話をかけ
てきたらしい。侘びを言って、30分後にはそちらに着けるから、と伝えてもらうよう頼んだ。

すぐに行きますから、と言っておきながら、本当はあそこには行きたくない。
あそこは優しい人たちばかりで、ボクは窒息しそうになる。
その現れ方が違うにしても、みんなボクを好きで、子供の頃から可愛がってくれて、応援してくれて、
ボクが勝ったといえば自分のことのように喜んでくれる、そんな人たちばかりだ。そして何かボクの身に
異変でも見つければ親身になって心配してくれて。それを嬉しいとこそ思え、それなのに、正にその事を
鬱陶しいと思ってしまうのはなぜなんだろう。

もう、うんざりだ。何もかもが。
もう、何もかも全てを投げ出してしまいたい。
もう、何もしたくないのに、それでもしなければならない雑事が追いかけてくる。
旅行の準備だってそろそろ始めないといけない。
何だってこんな時に、国を背負って戦うような真似をしなければならないんだ。
勿論基本は個人対個人の戦いだけど、セレモニーのような試合とはいえ、国際試合である以上、日本
という国を意識せずにはいられない。ボクは日本棋院に所属する棋士で、世界的にも名を馳せた塔矢
行洋の息子で、それはどうやったって消せはしない。そもそも、ボクがあの父の息子でなければこんな
試合はお膳立てされなかった。
わかってる。ボクはプロなんだから、ボクはボクのためだけでなく、棋院のためとか、日本碁界のため
とか、そういうもののために、戦わなければならないって事くらいは。
体調管理なんか、プロとして当然の事だ。プロだったら個人的な事情なんか表に出すな。その通りだ。
でも、わかっていたって出来ない事もあるんだ。だからせめてボクを放っておいてくれ。


(51)
違うんだ。こんな風に、周りの皆を責めたいわけじゃないんだ。
ボクは、ボクが一番嫌いだ。
傲慢で奢り昂ぶった自分が。
意地っ張りで自己中心的で我儘で、心の中はどす黒いのにそれを押し隠して、表面的な愛想笑いで
周囲を誤魔化せるつもりになってる自分が。
周囲の人の心配も優しさも素直に受け取れない自分が。
嫌いだ。大っ嫌いだ。
ボクはこんなにボクが嫌いなのに、そのボクを賞賛するあなた達は一体ボクの何を見ているんだって、
また、言ってしまいそうになる。
そんな自分を見せないように表面だけ飾って取り繕っているのは、やっぱりボクなのに。

ボクが今まで築き上げてきた「塔矢アキラ」が、ボクをただの15歳の子供でいる事を許さなくて、そんな
居心地の悪い空気の中で、ボクは時折「塔矢アキラ」と言う名前を捨ててしまいたくなる。
例えば、「さすがは塔矢アキラ」と言われても、謙遜なんかするつもりはない。
そう言われるに足るだけの努力をボクはしてきた。ボクが今ここにいるのはボク自身の力だ。父の力
は、全く関係ないとは言えないし、環境は大いに助けになったに違いないだろうけれど、それ以上の
努力をボクはしてきた筈だ。
それなのに、自分の力で周囲に後押しされながら築き上げてきた「塔矢アキラ」の名前が、今のボク
にはなぜだかとても邪魔に思えてならない。


(52)
重荷、というと、少しニュアンスが違う気がする。
よくわからないけれど、鬱陶しい、と感じてしまう。
ボクはボクなのに、それだけではない「塔矢アキラ」が一人歩きしてしまっているようで。きっとその
「塔矢アキラ」を作ってしまったのもボク自身なんだろうけれど。
ボクが誇りに思い、だがしつらえた仮面であり、更に鎧でもあった「塔矢アキラ」が、今、ボクを雁字
搦めに絡めとり、身動きさせなくしている、そんな気がする。
それとも、ボクにはやはりそれは重荷だったのだろうか。
彼と二人でなら歩いていけると、そう思っていたのに、今、ボクの隣には彼がいないから、二人で分
け合っていた荷物を、また突然一人で背負わされたように、急に重荷に感じてしまうのだろうか。

もしかしたら、ボクが彼に惹かれたのは、彼がボクと違って、この世界に何のしがらみも持たないよう
に見えたからかもしれない。
あんな強さを秘めているくせに、彼は碁界の事をロクに知らない。タイトル戦だって全部言えるかどう
か怪しいくらいだ。だから、囲碁界という古い世界のしがらみを、彼は簡単に乗り越えて、自由に、そう、
いつも彼は自由にどこかへ向かって駆けて行くような、そんなイメージがある。
笑いながら走っていく彼をボクは追いかけながら、でも、掴まえる事ができない。
彼には明るい日差しがとてもよく似合う。きっと、運動の得意な、元気な子供だったんだろう。最初に
あった頃の彼のイメージもそんな感じだった。
ボクがこんなにも囚われている碁からさえも、彼は自由に見えた。
あの日、碁を侮辱した彼に感じた腹立たしさの内に、ほんの少しでも憧れがなかったか。
圧倒的な強さをボクに見せ付けながらも、ボクが大事にしているものを軽々と扱う(あるいは馬鹿にする)
彼に対して、ほんの僅かでも、憧れはなかったか。羨ましいとは思わなかったか。
それともそんな事は、こんなにも彼に恋してしまったボクが振り返って思うから、ただそれだけなのか。



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