誘惑 第二部 5 - 8


(5)
なぜ、コイツのこんな顔を見て、オレの胸が痛むんだ。
畜生。
悔しい。
オレは、何が悔しいんだ。
進藤の事なんか、オレには関係ないじゃないか。
あいつはオレの――途中で思考が止まった。あいつはオレの、何だって言いたかったんだ?オレは。
面倒を見てやらなきゃいけない、可愛い後輩だと思ってた。同期の仲間で、ライバルだと思ってた。
でも今は違う。
では何だ。
恋敵だとでも、言いたいのか。
恋、なのか?
塔矢を抱きながら口走った言葉。
ずっとおまえが好きだった。おまえに憧れてた。嫌ってたんじゃない、逆だ。
なぜあんな事を言ったんだろう。今までそんな事、思った事もなかったのに。
オレは塔矢を好きなのか?塔矢に恋してるとでも言うのか?
でも、塔矢はオレのものじゃない。あいつの本当の相手は進藤なんだか緒方なんだか知らないが、
オレじゃないことだけは確かだ。
クソッ。
一体、塔矢と進藤はどういう関係なんだ。塔矢が惚れてるのは進藤なのか?
囲碁だけじゃなく、塔矢に関しても、オレは進藤にかなわないのか。追い抜かれてくばっかりなのか?
それなのに、進藤のあんな泣きそうな顔を見ると、どうして、どうにかしてやんなきゃ、なんて思うんだ。
そうだ。この間、あいつを泣かせた時だって、オレはもの凄く後悔した。悪かった、進藤、って。
あんな事さえ――塔矢の事さえなかったら、オレは進藤が好きなのに。
塔矢がいっつも進藤を気にかけてる事だって、あいつならしょーがねーよな、って、思ってたのに。
そうだ。塔矢はいつも進藤を気にかけてた。一緒に対局があると、いっつも進藤の盤面を見て、進藤
が勝ってるってわかると嬉しそうに笑ってた。そしてオレはそんな塔矢にいつも苛ついてた。
それなのに塔矢は今日はさっさと一人で帰っていった。今までは、昼だって帰りだってベタベタ一緒に
くっついてたせに。
それなのに、何してるんだよ、塔矢は?進藤にあんな顔させて。
そして緒方十段とおまえとは、一体何があったっていうんだよ、塔矢?


(6)
近くまでにきたついでに、と棋院に立ち寄った和谷は、そこでカメラマンや記者のような大人たち
と会議室の一つに入って行くアキラの姿を目にした。
通りすがりの職員に聞いたら、雑誌の取材と言う事らしかった。
そう言えば、今度塔矢が中国に行くという話を漏れ聞いた事がある。詳しく聞くと、北斗杯の実績と、
父・塔矢行洋の北京リーグ参戦とのつながりもあって、どうやら中国リーグのイベントの記念対局と
やらに呼ばれるらしい。
ハッ、わざわざカメラマン付きで雑誌の取材とはな。さすがは塔矢アキラ様だぜ。ケッ、胸糞悪い。
和谷は内心悪態をついた。
こうやっていつも格の違いを見せ付けられる。どうせオレらとは立ってる位置が違う。
年は一つ下だが、プロ入りは一年向こうの方が早い。どうして同年代にこんな奴がいるんだろう。
せめて全然遠い所にいる奴なら、全然違う立場にいる奴なら、こんなに気になりはしなかった。
こんな所にはいたくない。さっさと帰ろう。
頭ではそう思いながらも、一般対局場での対局を見物したり、売店をひやかしたりしてぐずぐずと
無駄に時間を過ごしていた和谷の耳に、アキラの声が届いた。
慌てて振り返っために、鞄がぶつかって、並んでいた雑誌がバラバラと落ちた。その音に一瞬立ち
止まって振り返ったアキラは、だが何の反応もなく視線を戻し、何事もなかったかのように記者達に
挨拶をしていた。その反応に和谷はカッときた。乱暴に雑誌を元に戻してから、一人になったアキラ
の背中に、和谷は声を投げかけた。
「塔矢!」
聞こえている筈なのに歩みを止めないアキラに、更に頭に血が上り、後を追いかけて乱暴に腕を
掴んだ。
「塔矢!」
そうしてしまってから、酷く後悔した。これではあの時と同じだ。でも、もう、遅い。
予想通りの冷たい声が返ってきた。
「何か?」
「…話が、あるんだ。」
またか、と言いたげな、苛ついたような、うんざりした目が返ってきた。
「いいから、来いよ!」


(7)
けれど、考えてみたら本当は話をする事なんて何もなかった。
ただ、何か話をしたかっただけだった。
だから、人のいない控え室にアキラを引っ張り込んでから、仕方なしにこんな事を切り出した。
「おまえ、進藤とどうしたんだ。何があったんだ。」
和谷の問いかけにアキラは不快げに眉を動かし、押し殺したような声で答えた。
「キミには関係ない。」
「おまえのせいだろう?進藤がおかしいのは。こないだだって。何があったんだ。」
「…それがどうかしたか?キミには関係のないことだ。」
「おまえっ…」
和谷はつい、カッとなって声を荒げそうになった。
「関係ないなんて、よくも、そんな口、きけるな。だいたい、なんだよ、その態度は。エラソウに。
この前は、オレの前であんなに乱れてたくせに…」
訝しげに眉をひそめて和谷を見、それから思い出したように嘲りの笑みを浮かべた。
「あのくらい、」
くっと喉の奥で笑って言った。
「あんな事が、ボクにとって何だって言うんだ。一度やったくらいでくだくだ言うなよ。
それとも、あれくらいでボクと何らかの関係でもできたとでも思うのか?思い上がるな。」
「なんだって!?キサマ…」
「だから、そんな事で大声をあげないでくれよ。みっともない。」
掴みかかろうとした和谷の手を軽く振り払う。
「ああ、あと、その事も、進藤に、わざわざご親切に教えてやってくれてどうもありがとう。
おかげでボクから言わずにすんだよ。感謝してるよ。
よく、言えるね。進藤がおかしいのはボクのせいだろう、なんてさ。」
「オレはっ…進藤が気落ちしてて、見てらんないから、だからわざわざおまえに…!」
「だったら進藤と話をすればいいだろう。なぜボクに言う。ボクに何の関係がある。
ボクと進藤とはもう何の関係もないんだ。」
関係ない、というアキラの語尾が微かに震えていた。


(8)
「前に言ったよね。ボクとキミとの接点なんて進藤だけだと。
でもボクは進藤とはもう何の関係もないんだから、キミとは更に何の接点もないんだよ。
だからこれ以上ボクを待ちぶせしたり話し掛けたりするのはやめてくれ。
キミの顔をみるだけでもうんざりだ。顔も見たくないといったのを忘れたのか?」
「そんなに…オレが嫌いなのかよ…?」
「別に。嫌うほどキミには関心はない。ただ目障りなだけだ。」
「じゃあ、進藤の事は。」
「だからもう関係ないって言ったろう…!」
「…ホントに、そうなのかよ。あれだけ…あんな事しといて、もう進藤はどうでもいいのかよ?
じゃあ、いいんだな。オレがあいつを慰めてやっても。」
アキラがギラリと和谷を睨みつけた。その視線を更に煽るように、和谷が言う。
「そうだよな。おまえと別れたって言うんなら、進藤はもうフリーだもんな。
ああやって気落ちしてる進藤もそそるよ。
おまえがもう関係ないって言うんなら、オレが優しく慰めて…」
言い終らない内にアキラが和谷の手首を掴んで激しく音を立てて壁に打ち付けた。
ギリギリと和谷の手首を締め上げながら、燃えるような目でアキラが和谷を睨み付けた。和谷の
背筋を何かが走り抜ける。痛みと、恐怖と、けれどそれだけではない何かが。
いっそ燃え上がるこの瞳に焼き尽くされてしまいたい。もっともっと、怒りに震える塔矢が見たい。
手首の苦痛に顔を歪めながらも、和谷は不敵な笑みを片頬に浮かべる。
「なんだよ。もう関係ないんじゃなかったのか。」
自分を射殺しそうな強い目の光に捕らえられる。怒りを抑えようと強く引き締められて色を失った
唇から、目が離せない。ゾクゾクする。ゾクゾクして体の芯が疼く。自分の心臓の音が大きく響く
のを感じる。背を走りぬけるものは恐怖ではなく。
奇妙な高揚感に、無意識に和谷の唇の端が釣り上がる。そして和谷は空いた手でアキラの肩を
掴んで引き寄せると、彼の唇を捕らえた。



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