誘惑 第二部 51 - 55


(51)
違うんだ。こんな風に、周りの皆を責めたいわけじゃないんだ。
ボクは、ボクが一番嫌いだ。
傲慢で奢り昂ぶった自分が。
意地っ張りで自己中心的で我儘で、心の中はどす黒いのにそれを押し隠して、表面的な愛想笑いで
周囲を誤魔化せるつもりになってる自分が。
周囲の人の心配も優しさも素直に受け取れない自分が。
嫌いだ。大っ嫌いだ。
ボクはこんなにボクが嫌いなのに、そのボクを賞賛するあなた達は一体ボクの何を見ているんだって、
また、言ってしまいそうになる。
そんな自分を見せないように表面だけ飾って取り繕っているのは、やっぱりボクなのに。

ボクが今まで築き上げてきた「塔矢アキラ」が、ボクをただの15歳の子供でいる事を許さなくて、そんな
居心地の悪い空気の中で、ボクは時折「塔矢アキラ」と言う名前を捨ててしまいたくなる。
例えば、「さすがは塔矢アキラ」と言われても、謙遜なんかするつもりはない。
そう言われるに足るだけの努力をボクはしてきた。ボクが今ここにいるのはボク自身の力だ。父の力
は、全く関係ないとは言えないし、環境は大いに助けになったに違いないだろうけれど、それ以上の
努力をボクはしてきた筈だ。
それなのに、自分の力で周囲に後押しされながら築き上げてきた「塔矢アキラ」の名前が、今のボク
にはなぜだかとても邪魔に思えてならない。


(52)
重荷、というと、少しニュアンスが違う気がする。
よくわからないけれど、鬱陶しい、と感じてしまう。
ボクはボクなのに、それだけではない「塔矢アキラ」が一人歩きしてしまっているようで。きっとその
「塔矢アキラ」を作ってしまったのもボク自身なんだろうけれど。
ボクが誇りに思い、だがしつらえた仮面であり、更に鎧でもあった「塔矢アキラ」が、今、ボクを雁字
搦めに絡めとり、身動きさせなくしている、そんな気がする。
それとも、ボクにはやはりそれは重荷だったのだろうか。
彼と二人でなら歩いていけると、そう思っていたのに、今、ボクの隣には彼がいないから、二人で分
け合っていた荷物を、また突然一人で背負わされたように、急に重荷に感じてしまうのだろうか。

もしかしたら、ボクが彼に惹かれたのは、彼がボクと違って、この世界に何のしがらみも持たないよう
に見えたからかもしれない。
あんな強さを秘めているくせに、彼は碁界の事をロクに知らない。タイトル戦だって全部言えるかどう
か怪しいくらいだ。だから、囲碁界という古い世界のしがらみを、彼は簡単に乗り越えて、自由に、そう、
いつも彼は自由にどこかへ向かって駆けて行くような、そんなイメージがある。
笑いながら走っていく彼をボクは追いかけながら、でも、掴まえる事ができない。
彼には明るい日差しがとてもよく似合う。きっと、運動の得意な、元気な子供だったんだろう。最初に
あった頃の彼のイメージもそんな感じだった。
ボクがこんなにも囚われている碁からさえも、彼は自由に見えた。
あの日、碁を侮辱した彼に感じた腹立たしさの内に、ほんの少しでも憧れがなかったか。
圧倒的な強さをボクに見せ付けながらも、ボクが大事にしているものを軽々と扱う(あるいは馬鹿にする)
彼に対して、ほんの僅かでも、憧れはなかったか。羨ましいとは思わなかったか。
それともそんな事は、こんなにも彼に恋してしまったボクが振り返って思うから、ただそれだけなのか。


(53)
けれどそれが憧れであれ、憤りであれ、その事でボクはキミに強く惹き付けられた。
そしてそれ以来ボクはキミを忘れられず、いつだって、キミの事ばかり考えていた。初めて出会ったその
時から、ボクはキミに恋していたのかもしれないと、今になって思う。
碁を打つ事だけがボクの生活の全てで、大人たちに囲まれて生きていたボクの前に、キミはが突然現れ、
ボクを打ちのめし、ボクの一番大切だったものを軽々と否定した。そんな普通の元気な子供であるキミと、
得体の知れない強さを誇示するキミは奇妙にアンバランスで、その事がボクを惹き付けてやまなかった。
それなのにボクがキミに向き合おうと決心した途端に、キミはボクの手を振り払い、ボクに背を向けた。
それからずっとボクはキミを追って、追い続けて、それなのに掴まえたと思った途端にキミは逃げていく。
いつもいつも、キミはボクから逃げていく。そして今度こそボクはキミを掴まえられたと思ったのに。
きっと先に手を放したのはボクの方だ。キミだけを見て、キミの手だけを掴まえていればよかったのに。
キミの手をとる前にボクが縋りついていた手から、完全に離れるために、一度だけキミの手を放した。
そんなボクをキミは許さなかった。


(54)
手を放したのはボクの方だ。傷つけたのはボクの方だ。だからキミがボクを許せない気持ちはわかる。
それでもキミが好きなんだ。キミの事しか考えられないんだ。
世界中でただ一人、キミだけが好きだ。
他の誰でもキミの代わりにはなれない。
キミしか見えてない。キミだけしか欲しくない。
他の誰がどんなに優しくしてくれても、それじゃボクには足りないんだ。
ボクを動かすのはキミだけ。ボクを熱くさせるのはキミだけ。ボクを怒らせるのも、迷わせるのも、ボク
を不安にさせるのも臆病にさせるのも、世界中でキミ一人だけ。
進藤、今のキミは、まだほんの少しでも、ボクを好き?
それとももう、すっかり呆れ果てて、ボクの事など思い出したくもない?
向き合う事が怖くて逃げ回ってばかりのくせに、それでもキミにはボクの事を考えていて欲しいなんて
思ってしまう。
確かめずにいる事で、小さな、ほんの小さな希望の糸を、ボクは捨てきれずにいる。手繰り寄せたその
先が切れてしまっているかもしれない事が怖くて、その糸を引いてみる事さえできないくせに。


(55)
日差しが眩しい。眩しくて目を開けていられない。
暑い日差しがボクを追い詰める。けれど陽光を遮るものは何もなく、じりじりと焼き付ける太陽にボク
はうずくまって背を向けるだけだ。
照りつける日差しの下で、ボクも、ボクの影も真っ黒で、ボクはこんな汚い自分を晒したくはないのに、
太陽は容赦なくその事実をボクに突きつける。
それが恐ろしくて、ボクは太陽から逃れようとする。
走って、走って、やっと見つけた建物の影に隠れようとしても、ほっと一息ついた瞬間にその壁は崩れ
去り、更に厳しい光線がボクを射るように照らす。
やめてくれ。ボクを追い詰めないでくれ。そっとしておいてくれ。

けれど目を覚ますと、窓の外は夢の中とは正反対で、どんより重く立ち込める雲からはやまない雨
が鬱陶しく降りつづけている。
もう半ば習慣になってしまったような溜息をつきながら、シャワーを浴びる。
夕べのうちに荷物はまとめてある。
用意しておいたスーツを着込み、ネクタイを締める。
荷物はそう多くはない。一週間分の下着とシャツの替えと、スーツをもう一着と、カジュアルな服を一
揃い。と言ってもどうせ自由時間なんて殆どないだろうし、別に行きたいところがある訳でもない。
それと財布とパスポートと。
それだけあれば十分だろう。
それから思い直して本棚から棋譜集を一冊取り出し、スーツケースに詰める。
時間はまだ十分余裕があったが、部屋にいたって何もする事がない。
さっさと出かけてしまおうと思って玄関を開けて、降り続く雨と手元のスーツケースを見て、アキラ
はもう一度溜息をついた。



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