誘惑 第二部 53 - 56
(53)
けれどそれが憧れであれ、憤りであれ、その事でボクはキミに強く惹き付けられた。
そしてそれ以来ボクはキミを忘れられず、いつだって、キミの事ばかり考えていた。初めて出会ったその
時から、ボクはキミに恋していたのかもしれないと、今になって思う。
碁を打つ事だけがボクの生活の全てで、大人たちに囲まれて生きていたボクの前に、キミはが突然現れ、
ボクを打ちのめし、ボクの一番大切だったものを軽々と否定した。そんな普通の元気な子供であるキミと、
得体の知れない強さを誇示するキミは奇妙にアンバランスで、その事がボクを惹き付けてやまなかった。
それなのにボクがキミに向き合おうと決心した途端に、キミはボクの手を振り払い、ボクに背を向けた。
それからずっとボクはキミを追って、追い続けて、それなのに掴まえたと思った途端にキミは逃げていく。
いつもいつも、キミはボクから逃げていく。そして今度こそボクはキミを掴まえられたと思ったのに。
きっと先に手を放したのはボクの方だ。キミだけを見て、キミの手だけを掴まえていればよかったのに。
キミの手をとる前にボクが縋りついていた手から、完全に離れるために、一度だけキミの手を放した。
そんなボクをキミは許さなかった。
(54)
手を放したのはボクの方だ。傷つけたのはボクの方だ。だからキミがボクを許せない気持ちはわかる。
それでもキミが好きなんだ。キミの事しか考えられないんだ。
世界中でただ一人、キミだけが好きだ。
他の誰でもキミの代わりにはなれない。
キミしか見えてない。キミだけしか欲しくない。
他の誰がどんなに優しくしてくれても、それじゃボクには足りないんだ。
ボクを動かすのはキミだけ。ボクを熱くさせるのはキミだけ。ボクを怒らせるのも、迷わせるのも、ボク
を不安にさせるのも臆病にさせるのも、世界中でキミ一人だけ。
進藤、今のキミは、まだほんの少しでも、ボクを好き?
それとももう、すっかり呆れ果てて、ボクの事など思い出したくもない?
向き合う事が怖くて逃げ回ってばかりのくせに、それでもキミにはボクの事を考えていて欲しいなんて
思ってしまう。
確かめずにいる事で、小さな、ほんの小さな希望の糸を、ボクは捨てきれずにいる。手繰り寄せたその
先が切れてしまっているかもしれない事が怖くて、その糸を引いてみる事さえできないくせに。
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日差しが眩しい。眩しくて目を開けていられない。
暑い日差しがボクを追い詰める。けれど陽光を遮るものは何もなく、じりじりと焼き付ける太陽にボク
はうずくまって背を向けるだけだ。
照りつける日差しの下で、ボクも、ボクの影も真っ黒で、ボクはこんな汚い自分を晒したくはないのに、
太陽は容赦なくその事実をボクに突きつける。
それが恐ろしくて、ボクは太陽から逃れようとする。
走って、走って、やっと見つけた建物の影に隠れようとしても、ほっと一息ついた瞬間にその壁は崩れ
去り、更に厳しい光線がボクを射るように照らす。
やめてくれ。ボクを追い詰めないでくれ。そっとしておいてくれ。
けれど目を覚ますと、窓の外は夢の中とは正反対で、どんより重く立ち込める雲からはやまない雨
が鬱陶しく降りつづけている。
もう半ば習慣になってしまったような溜息をつきながら、シャワーを浴びる。
夕べのうちに荷物はまとめてある。
用意しておいたスーツを着込み、ネクタイを締める。
荷物はそう多くはない。一週間分の下着とシャツの替えと、スーツをもう一着と、カジュアルな服を一
揃い。と言ってもどうせ自由時間なんて殆どないだろうし、別に行きたいところがある訳でもない。
それと財布とパスポートと。
それだけあれば十分だろう。
それから思い直して本棚から棋譜集を一冊取り出し、スーツケースに詰める。
時間はまだ十分余裕があったが、部屋にいたって何もする事がない。
さっさと出かけてしまおうと思って玄関を開けて、降り続く雨と手元のスーツケースを見て、アキラ
はもう一度溜息をついた。
(56)
特に予定も無かったその日、ヒカルは午前中から書類を提出するついでに自分が参加する予定の
イベントの時間と場所を確認するために棋院に出向いた。
棋院の事務室に入ると、顔見知りの事務員が少し驚いたように、こう言った。
「あれ、進藤くん、見送りに行かなかったんだ?」
「え…?」
「今日、塔矢くん、出発だろ。塔矢門下とか後援会とかで成田まで見送りに行くって言ってたよ。
進藤くんは塔矢くんとも仲がいいみたいだから、てっきり行ってるかと思ったのに。」
知らなかった。
呆然としているヒカルに気付かずに事務員は続けた。
「しかし、塔矢アキラも派手だよねぇ。まだ若いのに。でもまあ、あの実績じゃあ当然かな。元名人の
後援会をそのまま引き継いでるようなもんなのかな。あの調子じゃ、勝って凱旋するような時にゃ、
お出迎えも相当ハデにやるんじゃないかなあ。」
「…どのくらい、向こうに行ってるんですか…?」
「そうだなあ…確か一週間くらいだったと思うけど…帰ってくるのは確か…」
そう言って他の人に声をかけてスケジュールを確認し、帰国の日をヒカルに告げた。
「進藤くんもさ、負けてんなよ、塔矢アキラに。オレはキミに期待してるんだぜ?」
「ハハ…アリガトウゴザイマス。」
それから後は手早く用事を済ませて、事務室を出た。
元々、足を運ぶほどの用事じゃなかったから、長居もしないで済んだ。
「そっか、塔矢の出発、今日だったのか…オレ、知らなかったな……」
ヒカルは小さな声で呟くように言った。
今日から一週間、塔矢は日本にいない。
もう一ヶ月近く会ってないんだから、顔を見たのだってこの間の一瞬だけで、だからそれに更に一週間、
確実に会えない日が足されたからって、何がどう変わるって訳じゃない。どうせ会えないんだから。
帰ってくる日なんか、確かめてどうしようって言うんだ。バカか、オレは。
棋院の玄関を出て、傘を広げようとし、ふと、相変わらず雨の降りやまない空を見上げた。
今日はこんな天気で、飛行機なんか見えるはずがない。
見えてたって、それがあいつが乗ってる飛行機かどうかなんて、わかるはず、ないのに。
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