病床小アキラ 55 - 57


(55)
「ハハ、夢か」
 緒方さんは照れてひとりで笑った後、ふらりと立ち上がって寝室を後にしました。アキラく
んたちのお陰か、随分楽になったようです。
 キッチンへ続く廊下を歩いていると、てっきり帰ってしまったと思っていた2人の声が聞こ
えて来ます。緒方さんは思わず口元を綻ばせました。
 ――アキラからも頼んでくれる?
 ――ハハ、いいですよ
「何を頼むんだ……?」
 リビングに入りながら独り言のように呟いた言葉を、2人は聞き逃したりしませんでした。
一斉に振り向くとエヘヘと笑って誤魔化します。 
「あ、緒方さん、ごはん食べられますか? お母さんにお弁当作ってきてもらったんですけど。
緒方さん、年末から寝込んでたからおせちまだ食べてないでしょ」
 アキラくんは立ち上がり、緒方さんに椅子をすすめました。
「いや、今はいいよ。それよりも、水を一杯もらえるかな?」
 緒方さんは椅子にどかりと腰を下ろすと、アキラくんが手渡してくれたコップを呷りました。
喉が渇いていたのか、緒方さんはすぐにお代わりを頼みます。それを見越していたのか、アキ
ラくんはスポーツドリンクのペットボトルを手に持ったままでした。
「ねえ緒方さん。ごはんが駄目なら、りんごはどうです?」
 緒方さんの差し出すコップにお代わりを注ぎながら、アキラくんはそんな提案をしました。


(56)
「それと、プリンも一応買ってきてはいますけど…どちらにしますか?」
 アキラくんは冷蔵庫のドアに手をかけ、くるりと振り向いて首を傾げました。
「いやぁ、風邪と聞いたらまずは桃缶ですよね緒方さん!」
 リンゴにプリンと聞いて、早速芦原さんが疑義を唱えます。それは緒方さんの家に行く前
から2人の間で交わされていた議論でもありました。
「大体さ、緒方さんがプリンなんて食べるわけないじゃんかアキラ」
「…と芦原さんがさっきからずっと主張してるんですけれど、どちらがいいですか?」
 真っ赤でつややかなリンゴと冷蔵庫から取り出したプリンを両手で抱えて、アキラくんは
にこにこ笑っています。アキラくんもご相伴に預かろうと思っているのでしょう。
 余談ですが、外と室内の温度差がかなりあるのか、笑みを浮かべたアキラくんのほっぺた
はうっすらと赤くなっていて、芦原さんが買ってきた桃の缶詰のパッケージに描かれた桃の
色にそっくりです。齧ったら甘いかな? と芦原さんは考え、イカンイカンと首を振りました。
「緒方さんもボクも、昔から病気のときはりんごとプリンなんです」
 プルプルと首を振る芦原さんを不思議そうな顔で眺めた後、そうですよね? と、アキラ
くんは緒方さんに同意を求めました。
 アキラくんが小さいころから、『リンゴは身体にいいからたくさん食べなさい』とか『プ
リンは栄養がたくさん入っているから食べなきゃね』などと口癖のように言っていたのは
緒方さんでした。当の緒方さんは苦笑しながらも頷くほかありません。


(57)
 アキラくんの両手に抱かれた大きなリンゴと、アキラくんのほっぺたの色にそっくりな桃の
缶詰をしばらく交互に見比べていましたが、緒方さんはやがて「リンゴをもらおうか」と掠れ
た声でリクエストしました。
「普通、風邪なら桃缶って相場が決ってるのに……」
「悪いな、芦原」
 緒方さんが口先だけでも謝ってくれたことに気を良くしながらも、芦原さんは拗ねてテーブ
ルの上に“の”の字をくるくると書き続けました。
 その傍らでは、アキラくんは張り切ってセーターをたくし上げています。
「りんご、ボクが剥いてあげますね」
 アキラくんはキッチンの棚から小さなナイフを取り出すと、テーブルの上にリンゴとナイフ
を並べて置きました。アキラくんはあまり手先が器用ではありません。そのことをよく知って
いる緒方さんと芦原さんはぎょっとしてアキラくんを見上げました。
「アキラくん…できるの?」
「オレがやってやろうか、アキラ」
 料理が得意な緒方さんと芦原さんは口々にアキラくんを心配しています。具合が悪いことも
忘れてしまったのか、緒方さんはすでにナイフを右手に握り締めていました。



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