誘惑 第二部 6 - 10
(6)
近くまでにきたついでに、と棋院に立ち寄った和谷は、そこでカメラマンや記者のような大人たち
と会議室の一つに入って行くアキラの姿を目にした。
通りすがりの職員に聞いたら、雑誌の取材と言う事らしかった。
そう言えば、今度塔矢が中国に行くという話を漏れ聞いた事がある。詳しく聞くと、北斗杯の実績と、
父・塔矢行洋の北京リーグ参戦とのつながりもあって、どうやら中国リーグのイベントの記念対局と
やらに呼ばれるらしい。
ハッ、わざわざカメラマン付きで雑誌の取材とはな。さすがは塔矢アキラ様だぜ。ケッ、胸糞悪い。
和谷は内心悪態をついた。
こうやっていつも格の違いを見せ付けられる。どうせオレらとは立ってる位置が違う。
年は一つ下だが、プロ入りは一年向こうの方が早い。どうして同年代にこんな奴がいるんだろう。
せめて全然遠い所にいる奴なら、全然違う立場にいる奴なら、こんなに気になりはしなかった。
こんな所にはいたくない。さっさと帰ろう。
頭ではそう思いながらも、一般対局場での対局を見物したり、売店をひやかしたりしてぐずぐずと
無駄に時間を過ごしていた和谷の耳に、アキラの声が届いた。
慌てて振り返っために、鞄がぶつかって、並んでいた雑誌がバラバラと落ちた。その音に一瞬立ち
止まって振り返ったアキラは、だが何の反応もなく視線を戻し、何事もなかったかのように記者達に
挨拶をしていた。その反応に和谷はカッときた。乱暴に雑誌を元に戻してから、一人になったアキラ
の背中に、和谷は声を投げかけた。
「塔矢!」
聞こえている筈なのに歩みを止めないアキラに、更に頭に血が上り、後を追いかけて乱暴に腕を
掴んだ。
「塔矢!」
そうしてしまってから、酷く後悔した。これではあの時と同じだ。でも、もう、遅い。
予想通りの冷たい声が返ってきた。
「何か?」
「…話が、あるんだ。」
またか、と言いたげな、苛ついたような、うんざりした目が返ってきた。
「いいから、来いよ!」
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けれど、考えてみたら本当は話をする事なんて何もなかった。
ただ、何か話をしたかっただけだった。
だから、人のいない控え室にアキラを引っ張り込んでから、仕方なしにこんな事を切り出した。
「おまえ、進藤とどうしたんだ。何があったんだ。」
和谷の問いかけにアキラは不快げに眉を動かし、押し殺したような声で答えた。
「キミには関係ない。」
「おまえのせいだろう?進藤がおかしいのは。こないだだって。何があったんだ。」
「…それがどうかしたか?キミには関係のないことだ。」
「おまえっ…」
和谷はつい、カッとなって声を荒げそうになった。
「関係ないなんて、よくも、そんな口、きけるな。だいたい、なんだよ、その態度は。エラソウに。
この前は、オレの前であんなに乱れてたくせに…」
訝しげに眉をひそめて和谷を見、それから思い出したように嘲りの笑みを浮かべた。
「あのくらい、」
くっと喉の奥で笑って言った。
「あんな事が、ボクにとって何だって言うんだ。一度やったくらいでくだくだ言うなよ。
それとも、あれくらいでボクと何らかの関係でもできたとでも思うのか?思い上がるな。」
「なんだって!?キサマ…」
「だから、そんな事で大声をあげないでくれよ。みっともない。」
掴みかかろうとした和谷の手を軽く振り払う。
「ああ、あと、その事も、進藤に、わざわざご親切に教えてやってくれてどうもありがとう。
おかげでボクから言わずにすんだよ。感謝してるよ。
よく、言えるね。進藤がおかしいのはボクのせいだろう、なんてさ。」
「オレはっ…進藤が気落ちしてて、見てらんないから、だからわざわざおまえに…!」
「だったら進藤と話をすればいいだろう。なぜボクに言う。ボクに何の関係がある。
ボクと進藤とはもう何の関係もないんだ。」
関係ない、というアキラの語尾が微かに震えていた。
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「前に言ったよね。ボクとキミとの接点なんて進藤だけだと。
でもボクは進藤とはもう何の関係もないんだから、キミとは更に何の接点もないんだよ。
だからこれ以上ボクを待ちぶせしたり話し掛けたりするのはやめてくれ。
キミの顔をみるだけでもうんざりだ。顔も見たくないといったのを忘れたのか?」
「そんなに…オレが嫌いなのかよ…?」
「別に。嫌うほどキミには関心はない。ただ目障りなだけだ。」
「じゃあ、進藤の事は。」
「だからもう関係ないって言ったろう…!」
「…ホントに、そうなのかよ。あれだけ…あんな事しといて、もう進藤はどうでもいいのかよ?
じゃあ、いいんだな。オレがあいつを慰めてやっても。」
アキラがギラリと和谷を睨みつけた。その視線を更に煽るように、和谷が言う。
「そうだよな。おまえと別れたって言うんなら、進藤はもうフリーだもんな。
ああやって気落ちしてる進藤もそそるよ。
おまえがもう関係ないって言うんなら、オレが優しく慰めて…」
言い終らない内にアキラが和谷の手首を掴んで激しく音を立てて壁に打ち付けた。
ギリギリと和谷の手首を締め上げながら、燃えるような目でアキラが和谷を睨み付けた。和谷の
背筋を何かが走り抜ける。痛みと、恐怖と、けれどそれだけではない何かが。
いっそ燃え上がるこの瞳に焼き尽くされてしまいたい。もっともっと、怒りに震える塔矢が見たい。
手首の苦痛に顔を歪めながらも、和谷は不敵な笑みを片頬に浮かべる。
「なんだよ。もう関係ないんじゃなかったのか。」
自分を射殺しそうな強い目の光に捕らえられる。怒りを抑えようと強く引き締められて色を失った
唇から、目が離せない。ゾクゾクする。ゾクゾクして体の芯が疼く。自分の心臓の音が大きく響く
のを感じる。背を走りぬけるものは恐怖ではなく。
奇妙な高揚感に、無意識に和谷の唇の端が釣り上がる。そして和谷は空いた手でアキラの肩を
掴んで引き寄せると、彼の唇を捕らえた。
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反射的に逃げようとするアキラの唇に、自分の唇を強く押し当て、強引にこじ開けようとした。が、
抵抗していた筈のアキラは次の瞬間に和谷を受け入れ、彼の舌に自分の舌を絡ませ、吸い上
げる。その感触に和谷がとろけそうになった、瞬間、ギリッとアキラの歯が和谷の舌を噛んだ。
鋭い痛みに、和谷は悲鳴を上げそうになった。口の中にあっという間に鉄の味が広がる。飲み込
もうとした生暖かい血の味が気持ち悪くて、一瞬、反射的に吐き戻しそうになった。痛みと、出血
と、そして恐怖で、和谷は真っ青になっていた。そんな和谷の様子には構わずにアキラが和谷の
手首を押さえつけたまま身体を離す。そしてもう片方の手で和谷の顎を軽く持って、くい、と上を
向かせた。
「口、開けて。」
言われた通りに和谷が口を開ける。その中を、アキラは冷静そうな目で覗き込み、舌を引っ張った。
痛みに和谷の顔が歪んだ。
「ちょっと切れてるだけだな。たいした事ないよ。」
そう言うと、アキラは手を離した。
口内に溜まった血を、吐き気をこらえながら、もう一度飲み込む。気持ちが悪い。そこへ冷ややか
な声が浴びせ掛けられる。
「死ぬほどのキズじゃないから安心しろよ。」
それからアキラは和谷に顔を近づけて、低い声で警告した。
「進藤には手を出すな。進藤はボクのものだ。誰にも触れさせない。
そしてもしキミが進藤を傷つけるようなことをしたら、今度は本当に殺してやる。
ボクがどのくらい本気かくらい、もうわかった筈だ。」
それだけ言うと、冷ややかな目で和谷を見つめてから、彼の手を解放し、背を向けようとした。
「塔矢!」
叫ぶと痛みが走る。舌がうまく動かせず、ちゃんと発音できない。が、その呼び声にアキラが振り
向いて、言った。
「これ以上、何の用がある?」
けれど何も言えない。何も言えずに和谷は、ただ、アキラを睨み付けた。
「何も言う事がないんなら、二度とボクにつきまとうな。」
そう言い捨てると、アキラは和谷を置き去りにして、今度は振り返らずに立ち去った。
(10)
和谷の中で恐怖は絶望に、更に怒りと憎悪に変化する。
畜生。
何だ。何なんだ、あいつは。
オレを捕まえて、動けなくさせておいて、それなのに次の瞬間にはオレの事なんてなかったみたい
に、オレの事なんかすっかり忘れて、何の未練もなく背を向ける。いつも、いつもいつもそうやって、
オレを置いて、オレを一人取り残して、行ってしまう。
そんなに、おまえにとってオレはどうでもいい相手なのかよ?
進藤以外は、おまえにはどうでもいい奴ばっかりだって言うのかよ?
オレが何を言ったって、何をしたっておまえは一欠けらも気にしないって言うのかよ?
だったら、それならオレは進藤を傷つけてやる。そして、塔矢も進藤も、もっともっとぐちゃぐちゃに
傷つけ合えばいい。前には戻れないくらいに、お互いに顔を見るのも嫌になるくらいに傷つけ合え
ばいい。あいつらが、別々になって、二人とも別々に苦しんでると思えば、それでオレは少しは楽
になれる。蔑まれるだけなら、無視されるくらいなら、憎まれるほうがいい。そうしたら今度こそ塔矢
は、オレを忘れることなんかできなくなる。オレを無視することなんかできなくなる。
そうだろ?塔矢。
殺すって言うんなら、殺してみろよ、本当に。
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