白と黒の宴 66 - 67
(66)
碁会所の窓からアキラは通りの向いのビルの隙間の空を眺めていた。
父親が経営している駅前のではなく、別の場所へ都合のつかなくなった棋士の代理で指導碁に来ていた。
断る事も出来たが、たまには違う雰囲気の中で仕事をするのも良いかと思った。
リーグ戦後で常連客らが何か気を使う部分から逃れたいと感じたせいもあった。
今までそんな風に思った事が無かったのに、急に“見守られている”という囲いが煩わしくなった。
緒方との一戦で、自分にはまだ何かが足りないと考えた。
自分は恵まれ過ぎている。それで何か大切なものを見落としてしまっているような気がする。
対局から2日経ち、神経と肉体から熱が冷めるに従ってそんな事を考えるようになった。
その緒方から、あの後連絡がない。その事でホッとしている自分がいる。
そして緒方からまたマンションに来るように言われれば拒めない自分が居る。
『オレに抱かれた事を…後悔しないか』
消え入りそうな声で問いかけられた時、すぐには返事が出来なかった。
『…ボクは…緒方さんの事が…』
あの時自分はどう答えるつもりだったのだろうか。彼の体の下で彼に支配され切った体で。
緒方が望む答えを与える事で行為が続行されるのを望んだのではないのだろうか。
自分は緒方を利用しようとしていたのではないだろうか。
社との一件の後、おそらく今後の社の出方を想像すれば誰かの庇護が必要だった。
(67)
「塔矢先生?」
「あ…、は、ハイ、すみません。」
呼び掛けられ、休憩の時間が過ぎている事に気がついて慌てて席に移動する。
「何だ、子供じゃないか。こんなんでちゃんと碁を教えて貰えるのか?」
かつてはゴルフ場で着ていたであろうブランドのロゴの入ったポロシャツの50代後半位の
男性が苛立たしげにアキラを一瞥する。
同じく指導碁を受ける同じグループのいかにもその仲間といった者らも
「やはりちゃんと紹介してもらった碁会所に行った方が良かったかな」と口々に不満を漏らす。
定年前にリストラ同然に退職し、家に居る時間を持て余してこの年代から囲碁を習い始める
中間管理職の成れの果てのような輩が、最近増えたと市河がこぼしていた。
彼等の多くは人との接っし方を知らないのだと言う。横柄で自己顕示欲が強く
過去の肩書きに縋って生きている。
当然囲碁界に関する話題に興味はない。ただ自分がそこそこ碁が打てるようになればそれで良いのだ。
それでも今のアキラにはそういう相手の方が気が楽だった。
「御期待にそえるようがんばります。黒石を九つ、その交点に印があるところに置いて下さい。」
アキラが丁寧に頭を下げ、優しく微笑んで碁盤の上に手を示すと男性らは顔を見合わし、
多少は自分達の言動を恥じたのか、同じように頭を下げて素直に石を並べ出した。
彼等を笑う事はアキラには出来なかった。自分が生きている世界はまだまだあまりに狭い。
相手の意欲を削がぬ様、楽しみを見出せる様導き石を置く。そうして自分を戒め調律する。
まだリーグ戦は終わっていないのだ。
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