白と黒の宴 66 - 70
(66)
碁会所の窓からアキラは通りの向いのビルの隙間の空を眺めていた。
父親が経営している駅前のではなく、別の場所へ都合のつかなくなった棋士の代理で指導碁に来ていた。
断る事も出来たが、たまには違う雰囲気の中で仕事をするのも良いかと思った。
リーグ戦後で常連客らが何か気を使う部分から逃れたいと感じたせいもあった。
今までそんな風に思った事が無かったのに、急に“見守られている”という囲いが煩わしくなった。
緒方との一戦で、自分にはまだ何かが足りないと考えた。
自分は恵まれ過ぎている。それで何か大切なものを見落としてしまっているような気がする。
対局から2日経ち、神経と肉体から熱が冷めるに従ってそんな事を考えるようになった。
その緒方から、あの後連絡がない。その事でホッとしている自分がいる。
そして緒方からまたマンションに来るように言われれば拒めない自分が居る。
『オレに抱かれた事を…後悔しないか』
消え入りそうな声で問いかけられた時、すぐには返事が出来なかった。
『…ボクは…緒方さんの事が…』
あの時自分はどう答えるつもりだったのだろうか。彼の体の下で彼に支配され切った体で。
緒方が望む答えを与える事で行為が続行されるのを望んだのではないのだろうか。
自分は緒方を利用しようとしていたのではないだろうか。
社との一件の後、おそらく今後の社の出方を想像すれば誰かの庇護が必要だった。
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「塔矢先生?」
「あ…、は、ハイ、すみません。」
呼び掛けられ、休憩の時間が過ぎている事に気がついて慌てて席に移動する。
「何だ、子供じゃないか。こんなんでちゃんと碁を教えて貰えるのか?」
かつてはゴルフ場で着ていたであろうブランドのロゴの入ったポロシャツの50代後半位の
男性が苛立たしげにアキラを一瞥する。
同じく指導碁を受ける同じグループのいかにもその仲間といった者らも
「やはりちゃんと紹介してもらった碁会所に行った方が良かったかな」と口々に不満を漏らす。
定年前にリストラ同然に退職し、家に居る時間を持て余してこの年代から囲碁を習い始める
中間管理職の成れの果てのような輩が、最近増えたと市河がこぼしていた。
彼等の多くは人との接っし方を知らないのだと言う。横柄で自己顕示欲が強く
過去の肩書きに縋って生きている。
当然囲碁界に関する話題に興味はない。ただ自分がそこそこ碁が打てるようになればそれで良いのだ。
それでも今のアキラにはそういう相手の方が気が楽だった。
「御期待にそえるようがんばります。黒石を九つ、その交点に印があるところに置いて下さい。」
アキラが丁寧に頭を下げ、優しく微笑んで碁盤の上に手を示すと男性らは顔を見合わし、
多少は自分達の言動を恥じたのか、同じように頭を下げて素直に石を並べ出した。
彼等を笑う事はアキラには出来なかった。自分が生きている世界はまだまだあまりに狭い。
相手の意欲を削がぬ様、楽しみを見出せる様導き石を置く。そうして自分を戒め調律する。
まだリーグ戦は終わっていないのだ。
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電車に乗っている時点で雫が窓ガラスに斜に走り、駅に着くと同時に本降りとなった。
「まいったなあ…。」
自宅を出る時既に雲行きは怪しかったが、リュックの中に降り畳傘があるからと安心していた。
だがいざ取り出してみると柄の途中が微妙に曲がっていて開く事が出来ないと分かった。
駅からアキラの家までは歩くと結構あるがタクシーを使う程ではない。同じようにタクシーを使うか
思案したり携帯で迎えを呼ぶ者らで次第に狭い駅の軒下が人で溢れかける中で
ヒカルは途方にくれていた。
大体訪ねたからといってアキラが家にいる保証はないのだ。
午前中までは和谷のアパートでいつもの定期的な研究会をしていたが、午後から和谷が
仕事があるため一度解散した。
伊角に久々にどこか碁会所を荒しにでも(?)行こうかと誘われたが断ってヒカルは家に戻った。
アキラが来るような気がした。もしくは、アキラが自分に会いに来て欲しがっているような、
そんな気がした。
そうして夕方近くまで自分の部屋のベッドに寝転がっていたが、結局自分が来てしまった。
意地があるから駅前の碁会所を覗く気にはなれなかった。
空の端が明るく光っている。そのうち雨は上がるだろう。そうしたらさっさと駆け出して
ちょこっとアキラの家を覗いて、留守のようだったら帰る。そうしようと思った。
その時到着した電車から流れて来た人々の足音がする中、すぐ背後で誰かが立ち止まる気配があった。
「…進藤…」
振り返ると、ただ驚いたように真直ぐヒカルを見つめて来るアキラの視線があった。
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アキラの傘の中で雨の中を寄り添って歩く。
「今、両親とも留守だから…家に来てもらってもあまりたいした事出来ないけど。」
「そんなんじゃないよ。ただちょっと…」
「?」
とアキラが小首を傾げるようにしてヒカルを見つめる。
「ちょっとだけ、塔矢の意見が聞きたかったんだよ。」
「この前の君と森下九段の一局?」
「そう。」
アキラがヒカルの顔を見ながら話すのとに対し、ヒカルは何故かぶっきらぼうに前方を
見つめたままだった。それでもちらちらと横目でアキラの横顔を盗み見ていて、アキラと
目が合うとまた慌てて前を向く。
「…?」
アキラが不思議そうにヒカルの横顔を見つめる間はヒカルはこちらを見ようとしなかった。
「どうぞ、上がって。肩とか濡れてない?今タオル持って来るから。」
「あ、いいよ、大丈夫。オレもタオル持ってるし。」
ヒカルは一度だけこの家のすぐ前まで来た事があった。佐為を捜しに。
あれ程対局を望んだ塔矢元名人のところに引っ掛かっていやしないかと思いながら。
今思うと馬鹿馬鹿しいのだが、少しでも可能性があれば当時は動かないではいられなかった。
中に入ってみて気品のある旧い日本家屋独特の匂いと陰影に、囲碁の神様が住んでいたって
おかしくない、威厳のような空気をヒカルは感じないではいられなかった。
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アキラがお茶を煎れてお盆に適当にお茶請けと供に乗せて自分の部屋に戻ると、先に
通されていたヒカルが興味深げに部屋を見回していた。
本棚やローチェアーの中を覗き込んで自分だったら本屋で到底手に取らないであろう類いの
小説やらよその国の史記らしきものの背表紙の題字をぶつぶつ読んでいる。
「塔矢の本棚、漫画ってないんだな。読んだ事ないのか?」
「あるよ。ドラエもんとか。」
「…う、うん。ドラエもんか。」
「あまり見ないでよ。恥ずかしいよ。」
適当な場所にお茶を置くとアキラは部屋の片隅に立て掛けてあった碁盤を出して準備した。
「そこの押し入れの中に座ぶとんが入っているんだ。2枚、出して。」
「あ、ああ」
押し入れの戸を開けても何かが転がり落ちて来るというアクシデントもなく、きちんと整とんされた
布団と衣装ケースの並びにヒカルはつまらなそうに下の段の座ぶとんを運び出す。
「悪かったね、面白いものが何もなくて。」
アキラはヒカルをなだめるように笑んで仕事で着ていたスーツの上着だけ脱いで
ヒカルから座ぶとんを受け取る。
「いやまあ、別に…」
少し好奇心を表に出し過ぎた事を恥じて頭を掻きながらヒカルもどっかりと腰を降ろす。
そしてすぐに真面目な表情で碁盤の上に両方の碁石を手早く並べ始めた。
アキラも身を乗り出すようにしてそれに見入った。
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