白と黒の宴 71 - 75
(71)
「検討会は結構やったんだけどさ、どうしても森下師匠本人が目の前だと和谷とか
冴木さんも…オレも突っ込んだ事言いにくくてさ、例えばここ…」
並べた石を少しさかのぼって取り払い何手かパターンを示す。
「ああ、なる程ね。こっちを先にオサエたくなるのは分る。けど…」
アキラはヒカルの言いたい部分を理解し、手を伸ばして他の手を提示する。
「うん、オレもそれ考えたんだけど森下先生は『ジッセンテキじゃない』ってさ。」
「ボクは面白い手だと思う。ただその次にここに打つのはどうかと思う。」
「なんで。いいんだよこれで。」
「じゃあボクはここに行くよ。そうしたら進藤はどうする?」
「こっちにトぶ。」
「ふーん…ならこっちはキッていいんだね。」
「ぐっ」と詰まったような表情をしながらあくまでヒカルは引き下がろうとしない。
そうしていつしか盤上は二人の対局と化しつつ、目まぐるしく石と意見が交錯した。
先に音を上げたのはヒカルの方だった。
「分かった。分りました。でもこれでスッキリした。」
さすがに疲れたのか、そう言ってヒカルは首の後ろや肩を手で揉んでいる。
「塔矢も緒方さんに負けたんだよな。さすがタイトルホルダーだな。どんなだった?」
「…ボクのはいいよ。」
あの時の棋譜を思い返す事はその後の事まで一緒に思い出す事になる。
「…ふうん?そお?」
ヒカルは特に疑問を持つ様子もなく畳の上に大の字に寝転がった。
(72)
紆余曲折を経て盤上には今はヒカルと森下の終局面が並んでいる。ヒカルは結果にかなり不満のようだが
アキラはヒカルがさらに成長しているのを目の当たりに感じていた。森下門下の他の棋士らのレベルを
推し計るのは失礼だが、今のヒカルと正面から論じ合う事が出来る者がどれくらい居るだろう。
「…でも、負けたんだよな、…オレ…」
寝転がったヒカルがボソリと呟く。思い掛けないヒカルの弱音にアキラは一瞬ドキリとした。
「進藤…?」
ヒカルの傍に寄って、声をかける。
と、突然ヒカルに腕を引っ張られそのままヒカルの体の上に崩れかかって
両腕でヒカルに抱き締められた。
「よかった。…以前の塔矢と変わりなくて。何かおかしかったから、この前オレん家に来た時…」
ヒカルの胸の上に横顔を乗せた状態で、ヒカルの声がヒカルの体温を伝わってアキラの耳に届く。
「ゴメン、…心配させちゃったかな。ボクは大丈夫だから。」
検討会がどうのこうのというのは口実で、本当は自分の事を気にかけてくれていて会いに
来てくれのだと分かってアキラには本当に嬉しかった。
ヒカルの両腕はただひたむきにアキラの体を抱きしめて他に動こうとはしない。そんなヒカルに
こうして自分の体重を預けていると、湖上に浮かぶ小舟で漂うような落ち着いた気持ちになれた。
そんなささやかな静寂はグルルルルル、ニュルという豪快なヒカルのお腹の虫の鳴く音であっけなく破られた。
それでも暫く黙って二人はそのままの姿勢でいた。
「…最後、変な音したよね。」
「…うるせーなー。」
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「ボクが何か作るよ。その代わり文句いわないでよ。」
そう言ってアキラが体を起こすと、ヒカルも一緒に上半身を起こし、そのついでのように
アキラに顔を寄せて唇を軽く重ね合わせた。2度3度、そうして軽くキスをし、最後に少し長く
時間をかけたキスをした。舌先が軽く触れあったがヒカルはそれ以上は侵入して来なかった。
「ごちそうさん。片付け手伝えなくてゴメン。」
「いいんだよ。でももう遅いから本当に気をつけて。」
玄関先でスニーカーのヒモを結ぶヒカルの背をアキラは見つめる。
本当はヒカルにずっと居て欲しかった。一晩中抱きしめていて貰えたらどんなに安心出来るだろう。
安らかな気持ちで深く眠る事が出来るだろう。
だけど今はまだ、ヒカルにそういう事は望んではいけないと思った。
スニーカーを履き終えたヒカルが立ち上がってアキラも外まで見送りに行くつもりで
靴を履き、見つめあってもう一度顔をどちらからともなく寄せ合った。
その時表の門を開こうと軋む音がして、チャイムが鳴った。思わずヒカルとアキラは顔を見合わせた。
「もしかして、塔矢先生?」
「いや、…」
そう言えばヒカルが靴を履いている時に表で車が止まる音がしたような気がする。
タクシーとか、そういう種類ではない特徴のあるエンジンの振動だった。
アキラは自分の表情が強張っていくのを感じた。だが表に出て行かないわけにはいかない。
おそらく門のところに立つ者からは明かりが灯った玄関内に人が居る気配が見えているだろう。
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「…進藤…」
「緒方先生…!、ご、ごぶさたしてます。」
門のところに立つ人物が緒方と判るとヒカルは屈託無く笑顔で挨拶する。塔矢は塔矢でこれから
緒方と検討会なり対局なりする約束があったのだろう、とその位にしか思っていないようだった。
「じゃあな、塔矢。」
自分がここに来ていた事も当然後ろ暗く感じるところなく、ヒカルは傍に立つアキラに明るく
手を振ってその場を離れた。アキラは無言のまま緒方を見つめていた。
ヒカルが数メートルほど歩いて何気なく後ろを振り返るとアキラと緒方の姿はもう家の中に消えていた。
「…?」
何となく、二人の間に緊張感のようなものをヒカルは感じたが、
「そっか、同門対決の後だもんな…」
と呟くと夜道を駅へと急いだ。
居間の食卓の上には空になった皿やざる、二組の箸とつゆの小鉢が残されたままになっていた。
アキラはそれらのものを盆に乗せて流し台に運び、代りにふきんを持って来て食卓の上を拭く。
食事の用意の際に部屋着のチノパンと薄手のセーターに着替えていた。
「ボクがまだ小学校の低学年の頃は緒方さんもよく一緒にここで食事をしていましたよね…。
進藤が、お腹減ったって言うから、…でも何もなくて、うどんをゆでてあげたんです。
…ボクがネギを刻んで、しょうがを摩って…」
緒方に問われた訳でもない話をアキラは独り事のように説明しながら
ヒカルと過ごした時間の痕跡を片付けていった。
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緒方は黙って腕組みをして居間の入り口の柱に寄り掛かるようにしてその様子を眺めていたが、
ゆっくりとアキラに近付いていった。
「…それで、冷凍庫にあったおかずの余りものとか、レンジで温めて…、それで何とかなって…。
進藤って細いけど、ああ見えて結構食べるんですね。」
話しながらアキラは袖をまくり流し台の洗い桶の中の食器を洗い始める。
「すみません、緒方さん。…ここを片付けたらすぐにお茶でも…」
そう言いかけようとした時、流し台に向かっていたアキラのすぐ背後から緒方は両腕で
アキラの体を後ろから覆うようにしっかりと抱きしめてきた。
「…ずいぶん楽しかったようだな。」
アキラの両手は泡にまみれ、食器とそれを洗うスポンジで塞がっていた。
「楽しいですよ…。進藤と囲碁の事で話し合うのはとても楽しいです。」
緒方は知っているはずである。自分がヒカルに対しては生涯のライバルとして、そして数少
ない同年代の友人として、あるいはそれ以上の存在として心を開いている部分がある事を。
その事を隠すつもりはなかったしやましい事など何一つ自分達はしていない。
アキラは笑みをたたえたままで落ち着いた口調で答えた。
「…それは良かった。」
緒方の手がアキラのパンツのウェストのボタンを外して中に滑り込んで来た。ビクリとアキラの全身が強張る。
「…!!」
片腕で抱きとめられ緒方の体と流し台の間でアキラは動く事が出来なかった。緒方の手はそのまま
ブリーフの中でアキラの臀部を撫で回し、その谷間の奥に指を押し込んで来た。
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