白と黒の宴 72 - 73
(72)
紆余曲折を経て盤上には今はヒカルと森下の終局面が並んでいる。ヒカルは結果にかなり不満のようだが
アキラはヒカルがさらに成長しているのを目の当たりに感じていた。森下門下の他の棋士らのレベルを
推し計るのは失礼だが、今のヒカルと正面から論じ合う事が出来る者がどれくらい居るだろう。
「…でも、負けたんだよな、…オレ…」
寝転がったヒカルがボソリと呟く。思い掛けないヒカルの弱音にアキラは一瞬ドキリとした。
「進藤…?」
ヒカルの傍に寄って、声をかける。
と、突然ヒカルに腕を引っ張られそのままヒカルの体の上に崩れかかって
両腕でヒカルに抱き締められた。
「よかった。…以前の塔矢と変わりなくて。何かおかしかったから、この前オレん家に来た時…」
ヒカルの胸の上に横顔を乗せた状態で、ヒカルの声がヒカルの体温を伝わってアキラの耳に届く。
「ゴメン、…心配させちゃったかな。ボクは大丈夫だから。」
検討会がどうのこうのというのは口実で、本当は自分の事を気にかけてくれていて会いに
来てくれのだと分かってアキラには本当に嬉しかった。
ヒカルの両腕はただひたむきにアキラの体を抱きしめて他に動こうとはしない。そんなヒカルに
こうして自分の体重を預けていると、湖上に浮かぶ小舟で漂うような落ち着いた気持ちになれた。
そんなささやかな静寂はグルルルルル、ニュルという豪快なヒカルのお腹の虫の鳴く音であっけなく破られた。
それでも暫く黙って二人はそのままの姿勢でいた。
「…最後、変な音したよね。」
「…うるせーなー。」
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「ボクが何か作るよ。その代わり文句いわないでよ。」
そう言ってアキラが体を起こすと、ヒカルも一緒に上半身を起こし、そのついでのように
アキラに顔を寄せて唇を軽く重ね合わせた。2度3度、そうして軽くキスをし、最後に少し長く
時間をかけたキスをした。舌先が軽く触れあったがヒカルはそれ以上は侵入して来なかった。
「ごちそうさん。片付け手伝えなくてゴメン。」
「いいんだよ。でももう遅いから本当に気をつけて。」
玄関先でスニーカーのヒモを結ぶヒカルの背をアキラは見つめる。
本当はヒカルにずっと居て欲しかった。一晩中抱きしめていて貰えたらどんなに安心出来るだろう。
安らかな気持ちで深く眠る事が出来るだろう。
だけど今はまだ、ヒカルにそういう事は望んではいけないと思った。
スニーカーを履き終えたヒカルが立ち上がってアキラも外まで見送りに行くつもりで
靴を履き、見つめあってもう一度顔をどちらからともなく寄せ合った。
その時表の門を開こうと軋む音がして、チャイムが鳴った。思わずヒカルとアキラは顔を見合わせた。
「もしかして、塔矢先生?」
「いや、…」
そう言えばヒカルが靴を履いている時に表で車が止まる音がしたような気がする。
タクシーとか、そういう種類ではない特徴のあるエンジンの振動だった。
アキラは自分の表情が強張っていくのを感じた。だが表に出て行かないわけにはいかない。
おそらく門のところに立つ者からは明かりが灯った玄関内に人が居る気配が見えているだろう。
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