誘惑 第二部 9 - 12
(9)
反射的に逃げようとするアキラの唇に、自分の唇を強く押し当て、強引にこじ開けようとした。が、
抵抗していた筈のアキラは次の瞬間に和谷を受け入れ、彼の舌に自分の舌を絡ませ、吸い上
げる。その感触に和谷がとろけそうになった、瞬間、ギリッとアキラの歯が和谷の舌を噛んだ。
鋭い痛みに、和谷は悲鳴を上げそうになった。口の中にあっという間に鉄の味が広がる。飲み込
もうとした生暖かい血の味が気持ち悪くて、一瞬、反射的に吐き戻しそうになった。痛みと、出血
と、そして恐怖で、和谷は真っ青になっていた。そんな和谷の様子には構わずにアキラが和谷の
手首を押さえつけたまま身体を離す。そしてもう片方の手で和谷の顎を軽く持って、くい、と上を
向かせた。
「口、開けて。」
言われた通りに和谷が口を開ける。その中を、アキラは冷静そうな目で覗き込み、舌を引っ張った。
痛みに和谷の顔が歪んだ。
「ちょっと切れてるだけだな。たいした事ないよ。」
そう言うと、アキラは手を離した。
口内に溜まった血を、吐き気をこらえながら、もう一度飲み込む。気持ちが悪い。そこへ冷ややか
な声が浴びせ掛けられる。
「死ぬほどのキズじゃないから安心しろよ。」
それからアキラは和谷に顔を近づけて、低い声で警告した。
「進藤には手を出すな。進藤はボクのものだ。誰にも触れさせない。
そしてもしキミが進藤を傷つけるようなことをしたら、今度は本当に殺してやる。
ボクがどのくらい本気かくらい、もうわかった筈だ。」
それだけ言うと、冷ややかな目で和谷を見つめてから、彼の手を解放し、背を向けようとした。
「塔矢!」
叫ぶと痛みが走る。舌がうまく動かせず、ちゃんと発音できない。が、その呼び声にアキラが振り
向いて、言った。
「これ以上、何の用がある?」
けれど何も言えない。何も言えずに和谷は、ただ、アキラを睨み付けた。
「何も言う事がないんなら、二度とボクにつきまとうな。」
そう言い捨てると、アキラは和谷を置き去りにして、今度は振り返らずに立ち去った。
(10)
和谷の中で恐怖は絶望に、更に怒りと憎悪に変化する。
畜生。
何だ。何なんだ、あいつは。
オレを捕まえて、動けなくさせておいて、それなのに次の瞬間にはオレの事なんてなかったみたい
に、オレの事なんかすっかり忘れて、何の未練もなく背を向ける。いつも、いつもいつもそうやって、
オレを置いて、オレを一人取り残して、行ってしまう。
そんなに、おまえにとってオレはどうでもいい相手なのかよ?
進藤以外は、おまえにはどうでもいい奴ばっかりだって言うのかよ?
オレが何を言ったって、何をしたっておまえは一欠けらも気にしないって言うのかよ?
だったら、それならオレは進藤を傷つけてやる。そして、塔矢も進藤も、もっともっとぐちゃぐちゃに
傷つけ合えばいい。前には戻れないくらいに、お互いに顔を見るのも嫌になるくらいに傷つけ合え
ばいい。あいつらが、別々になって、二人とも別々に苦しんでると思えば、それでオレは少しは楽
になれる。蔑まれるだけなら、無視されるくらいなら、憎まれるほうがいい。そうしたら今度こそ塔矢
は、オレを忘れることなんかできなくなる。オレを無視することなんかできなくなる。
そうだろ?塔矢。
殺すって言うんなら、殺してみろよ、本当に。
(11)
「進藤、」
碁会所を出てきた所にいきなり声をかけらるて、ヒカルは一瞬言葉を失ったようだった。
だがすぐに普通の顔に戻って応えた。
「なんだよ、和谷。」
どこかに入らないか、そう言って強引に駅前のファーストフードに誘った。
「あのさ…オレ…」
「和谷、もうオレとは口きいてくれないかと思ってた。」
くすっと笑ってヒカルが応えた。それは以前と変わらない無邪気な笑顔だった。
そんな笑顔を見せられたら、ヒカルを傷つけてやろうなんて考えは、あっという間に、和谷の中から
どこかへ行ってしまった。
やっぱりオレはこいつにかなわない。
自分が情けなくて泣きそうな気分になってしまった。
「オレの事…怒ってないのか…」
「なんで?」
「塔矢と…」
言い澱んで、俯いて、小さな声で言った。
「ケンカしただろ。オレのせいだろ?」
「違うよ。和谷のせいじゃない。」
きっと、気にするな、と言ってるんだろうに、オマエなんか関係ない、と言われてしまったように感じる
のはやっぱり自分がひねくれてるからなんだろうか。
「オレ、悪かったって思ってる。ゴメン、進藤。」
「和谷のせいじゃないよ。」
ヒカルはもう一度そう言って、寂しそうに笑った。
今更謝って許してもらおうなんて、ムシが良すぎる。和谷はそう思った。
こいつに甘えて許してもらおうなんて。こいつの、恋人―?―に、オレが何をしたのか、こいつに何を
言ったのか。そして、声をかけるまで、オレがどんな下衆な事を考えてたか。
それなのにコイツは前と変わらずにオレに接してくれる。
以前と変わらない無邪気さでオレを許してくれる。
こんな…こんなヤツだから、塔矢もコイツを好きになったんだろうか。
(12)
「おまえ…塔矢とはどうなってるんだ。おまえと塔矢とはどんな関係なんだ。」
ヒカルは寂しそうな顔で笑って、それから俯いて小さく首を振った。
それから、ぽつりぽつりと話しはじめた。
「オレさ……オレ、塔矢に会ってなかったら、きっと碁なんてやってなかった。」
碁石に触ったのは佐為を宥めるためだった。佐為のご機嫌取りだった。
でも、塔矢に会わなかったら、オレはこんなに碁に真剣に、夢中にはならなかっただろう。
「…あいつに会って、あいつの真剣さにのまれて、あいつの目をオレに向けさせるために碁を始めて、
あいつと戦うためにオレはプロになった。だから、オレの人生を決めたのは塔矢なんだ。」
「たまたま、何でかオレと塔矢はあんな事になったけど……今は…もう違うけど……でも、もしそう
じゃなくても、例えばあいつに別の誰かがいても、オレが普通にどっかの女の子と付き合ったりして
たとしても、それでもオレの一番は塔矢で、オレには塔矢以上のヤツなんていなかったと思う。」
「いつだって、オレの特別な相手は塔矢なんだ。塔矢は…塔矢が、オレの運命なんだ。」
そんなヒカルの声に、表情に、和谷は飲み込まれそうになった。
「でもさ、」
そう言って、ヒカルは和谷を見た。いきなり視線があって、和谷はぎくりとした。
「もし塔矢がオレに会わなかったら…あいつがどうしてたかって考えるとさ、きっと、あいつは変わん
ない気がするんだ。別にオレがいてもいなくてもあいつはプロになってただろうし、オレ以外にもオレ
以上の碁打ちなんて一杯いるし、」
そこまで言って、ヒカルは声を詰まらせた。
「オレの特別は塔矢だけど、塔矢の特別はオレじゃないんだよ…」
|