裏失楽園 1 - 2


(1)
 シャワーを浴びて浴室から出てくると、わずかに煙草の匂いがした。
 ボクは素早くパジャマを身につけて自分の部屋へ戻った。玄関のところに見た覚えの
ない革靴が揃えて置いてある。ボクよりも一回りは大きい靴は、緒方さんのものに違いない。
「緒方さん?」
 緒方さんはボクの狭い部屋の真ん中で、銜え煙草のままウロウロと歩き回っていた。
「あ、灰皿ですか?」
 ボクは慌てて戸棚から灰皿を取り出して緒方さんに差し出した。
 緒方さんは目でボクに礼を言い、燃え滓が落ちそうになっていた煙草を無事に灰皿に捻じ込む。
 神経質で綺麗好きな彼は、素足で生活する場所が汚れていることが大嫌いなのだ。だから緒方さんの
部屋は全く生活のニオイが感じられないし、気まぐれに彼が訪れるボクの部屋も自然とそうなった。
「――ここに来るの、久しぶりですね」
「ああ」
 緒方さんはボクの部屋のスペアキーを持っている。ボクが初めて自分の城というものを
持ったときに、緒方さんは当然のような顔をしてボクの鍵束からスペアキーを抜き取った。
 ボクも緒方さんのマンションのスペアキーを一応は持っているけれども、ボクは自分から
彼の部屋を訪ねていく勇気がなかった。
 もしもボクが訪ねて行った時に、別の人の気配を部屋のどこかで感じてしまったら、
多分ボクは酷く傷ついてしまうだろう。そして、その確率がとてつもなく高いことも判っていた。
 緒方さんとボクとは、恋人同士でも何でもないのだから。
 それどころかボクは――。
 彼のジャケットをハンガーに掛けながら目を閉じる。抱きしめるように彼のジャケットに
顔を埋めると、緒方さんが好んでつける香水がボクを包み込んだ。
 緒方さん以外の相手と、ボクは取り返しのつかない過ちを犯してしまっていた。
 ――あの夜から、目を閉じると浮かび上がるのは進藤ヒカルの泣き叫ぶ姿だった。


(2)
 否、ボクはかぶりを振った。あのことは「取り返しのつかない過ち」などではない。
 彼に告げたように、熱に浮かされたようなあの時間を、後悔するつもりはなかった。
 ボクは彼を愛しているし、彼を手に入れるためにどんなことでもするつもりだったのだ。
 …でも、それでも、緒方さんの視線に囚われると動けなくなるボクがいる。
 進藤の狭い中に感嘆しながらも、緒方さんを求めるボクがいるのもまた事実なのだ。
「今朝進藤に会ったよ」
 緒方さんは痩身の彼によく似合う白いスーツを着ている。多分棋院からの帰りなのだろう。
 ネクタイの結び目をゆるめながら緒方さんがボクのベッドに腰を下ろした。
「……そうですか」
 緒方さんはボクが進藤を意識していることを知っていた。だからよく進藤の話を持ち出して
ボクの反応を楽しんでいるようなことがあるのだが…、ボクは震えだしそうになる足を、手を、
無理矢理動かしてハンガーを壁に吊るした。
「カワイソウに、フラフラしてたぜ?」
「………っ!」
 頭上から低い声が降ってくると同時に右手首を掴まれ、ボクは息を呑んだ。
 ――緒方さんは、知ってる。
「どうせキミのことだ、後先考えずガンガン突っ走っていったんだろう。ダメじゃないか」
 ボクを後ろから抱きしめるように立ち、緒方さんは耳元で囁く。相変わらず抑揚のない喋り方で、
ボクは緒方さんがどういう表情をしているのか見当もつかなかった。
 背中を冷たい汗が伝う嫌な感触はいつまでも消えてくれない。
「……オレがキミを抱くように、そんな風にしなきゃな」
 緒方さんの綺麗な形をした左の指が、ゆっくりとボクのパジャマのボタンに伸びてきた。



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