裏失楽園 56 - 60


(56)
 緒方さんの薄い唇を親指でなぞる。煙草を吸ってばかりの唇は少しかさついていて、ボクは
そのかさつきを自分の唾液で癒したい気持ちになった。
 緒方さんは酷い人だ。進藤に乱暴を振るおうとして怯えさせた。
 でも――ボクはまだ、彼をこんなにも愛しく思う。
「…嘘?」
 薄い唇が言葉を紡ぐために開かれる。よく彼がボクに対してするように、ボクはその隙間に
親指を差し入れた。口の中をまさぐると歯が爪に当たる。
「だってボクは緒方さんに違和感を感じたことなんて、ないもの」
 彼が言うように、誰か他の人と抱き合うとそれだけで違和感が生じるのだとしたら、ボクが
緒方さんに違和感を感じないのはおかしいと思う。――その『違和感』をボクが感じることの
ないよう上手く隠すことができるのが、経験の差であったり、いわゆる場数を踏んだ回数の差
だったりするのかもしれない。けれど、ボクはそんなことを緒方さんに免罪符として使ってほ
しくはなかった。
「……ああ」
 そんなことを漠然と思っているうちに、また別の可能性に思い当たる。ボクは自虐的な気持
ちになって、込み上げてくる笑いを抑えることができなくなってしまった。
「――ボクがあなたに抱かれるよりずっと前から、あなたは複数の人を相手にしてたんですよ
ね。ボクが知っているのは最初からそういうあなたなんだ」


(57)
 言葉にしてみると、なんて簡単な理由なんだろう。
 最初からいろんな人とセックスしているから、だからボクは緒方さんのどこにも違和感を感
じることがなかったのだ。
「――――」
 図星なのか緒方さんは一度口を開きかけ、何も言わずに俯いた。ボクは彼の口から親指を引
き抜いて、その唇に彼の唾液を絡ませる。蜂蜜を塗ったトーストを齧ったときのようにつやや
かになった彼の唇をもう一度撫で、ボクは彼の唾液がまだ残っている親指を舐めた。
 彼はボクの唾液を味わうたびに「甘い」と言うが、彼の唾液は決して甘くはない。ヘビー
スモーカーだからなのか、それともボクの唾液が甘いという緒方さんの言葉がリップサービス
に過ぎないのか、それはわからないけれど。
 ボクは振り返ると、所在無く立ち尽くしていた進藤を見上げた。
 進藤はすっかり落ち着いていて、大きな目を瞬かせながらボクたちを見ている。――先刻
まで、ボクがそうしていたように。
「進藤、歩ける? 歩けるようならシャワーを浴びておいでよ」
「う、うん」
 進藤はギクシャクと頷き、『洗濯物は乾燥機の中でしょ?』と緒方さんに訊ねながらドアを
開けて出ていった。


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「緒方さん」
 ボクはシーツに右の膝を突くと、髪を撫で上げて彼の顔を上げさせた。少し潤んだように
見えた瞳は相変わらずボクをまっすぐに映している。
 ――この顔を見て、どうして触れずにいられるだろう。
 ボクは彼の顔を見つめたまま唇を触れ合わせた。緒方さんは嫌がることもなく、無表情に
ボクの目を見ている。だが、やがて舌を絡め出したのは緒方さんの方で、そうなるとボクは
もう何もできなくなった。
 彼にされるがままに歯茎の裏で感じ、同じようにボクも彼の口蓋を舌先で刺激した。
 ほんのすぐ傍のバスルームでは進藤が裸になって、シャワーを浴びている。緒方さんに弄
られ、白濁を散らした肌を清めているのだ。なのにボクは、両膝を広いベッドに乗り上げて
緒方さんと互いの唇を貪りあっている。深く、深く。
 溢れる唾液はもう顎を伝い、喉を通って落ちてゆく。
 ボクは夢中になって緒方さんの柔らかな髪を両手で掻き回し、ふいに伸びてきた彼の腕に
キツク抱きしめられた。
「ふ……、ん」
 喉元に噛みついてきた緒方さんの顔を押し戻して、ボクは彼のシンボルに手を伸ばした。


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 進藤と相対しているときは自ら昂ぶらせなければならなかった彼の牡は、今や雄々しく天
を見上げている。
 ボクはそれを掴むと、力を込めて握り込めた。
 一瞬息を詰めた後で低く唸る緒方さんの声を愛しい気持ちで聞く。
 緒方さん、と呼びかけると彼は眉根を寄せて閉じていた瞼を薄く開け、薄茶色の瞳でボク
を見た。
「……ボクはこの間、進藤を抱いて、彼とキスをしました」
 その瞬間、緒方さんの視線に強い意志が宿る。
 進藤ヒカルという太陽をボクのものにした夢のような一瞬。それを改めて言葉にすると、
ひどく遠い昔の出来事のような気がした。
「でも……あなたは進藤とキスをしていない。そうですね」
「――ああ」
 掠れた声で応えがあり、ボクはほうっと深く息を吐く。
「よかった………」
 進藤と緒方さんがキスをしていなくてよかった。進藤に緒方さんが触れていないのが嬉し
いのか、緒方さんに進藤が触れていないのが嬉しいのか、相変わらず判りかねていたけれど、
素直にそう思った。


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「ボクの味は以前のボクと違いますか?」
 彼の応えを待たずに緒方さんの肩に手を置くと、ボクはまた彼の唇に自分のそれを押し付ける。
口に溜まった唾液を舌で掬うようにして彼の口元へと運んだ。何度かそれを繰り返すと、彼の飛
び出した喉仏がゴクリと動いた。ボクの唾液を嚥下したのだ。
「違っていたとしても、これが今のボクです」
 彼の口元を親指で拭うと、ボクは彼の陰茎に手を伸ばした。ボクや進藤のそれとは太さが明ら
かに違う幹をマイクを持つように握り、先端にそっと口付ける。
 彼が先程使ったローションのせいで、それは人工に作られた苺の味がした。
 馴染みの緒方さんの味は舌先に乗ってこない。緒方さんは少しも滲ませてはいなかったのだ。
 ボクは緒方さんの身体についたローションを舐め取るようにして、味の濃い部分を舌先で強く
擦る。彼が口の中で膨らむのを確かめながら、ボクは片手で自分のベルトに手を伸ばした。
「ボクは進藤のものもこうして舐めました。あなたが教えてくれた全てで、進藤を抱き――」
「――もういい。オレをこれ以上不快にさせないでくれ」
 鋭い舌打ちが聞こえる。以前なら確実に身体を竦ませていたそれを、ボクはどうしてだかやけ
に冷静に受け容れていた。
 もうボクのポジションは崖っぷちにいる。進藤と緒方さんのどちらに対してもだ。



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