裏失楽園 96 - 98


(96)

 進藤ヒカルという棋士のことを誰よりも理解しているのはボクだ。
 しかし、進藤と言葉を交わし、また何度となく対局してその結果得られた彼の人となりを
まだ完全には把握しきれていないのだろう。
 彼は確かに繊細だが、ボクが思っていたよりもはるかに進藤の精神は強靭だった。
「長く出てこないから、倒れてるんじゃないかと心配してたんだぞ」
 進藤の声にかぶるように、緒方さんが『アキラくん』とボクを呼んだ。いつもの冷徹な
響きをもつ彼の冷たく低い声は、その胸中が穏やかなのかそうでないのかすらもボクに悟
らせてくれない。
 彼の瞳から真意を探ろうとしたが、眼鏡のレンズに阻まれてそれも叶わなかった。
 立ち上がった緒方さんは溜息とともに近づいてくる。そしてボクの髪に指を絡ませた。
「髪がまだ濡れてる。早くここに来て髪を拭きなさい。……私がいるから入ってこられない
のなら、私が出て行くが」
「緒方センセ、何かっこつけて”私”とか言ってんの?」
 進藤は笑っていたが、ボクにとっては笑い事ではなかった。足が竦んで動けない。
 緒方さんが自分を『オレ』ではなく『私』と称すこと。
 ――それは相手にある程度の距離を置いたということを指していた。


(97)

 彼の肩越しに真っ赤なジュースの瓶が見える。ボクの大好きなオレンジジュースだ。
簡単にコンビニで買えるような代物ではなく、賞味期限は2週間程度なことを思い出した。
 もしかしたら、ボクがここに来なくなってからも彼は自分が飲むわけでもないジュースを
買いつづけていてくれたのだろうか?
 ボクは咄嗟に腕を伸ばし、傍を通り抜けようとする緒方さんの指を捕まえた。
「いかないでください」
 半ば抱きつくような形で、ボクは緒方さんをソファまで戻した。進藤が何をしだすのかと問い
かけるような表情で眺めている。
「私、なんて他人行儀な言いかた、やめてください」
「……バスローブを脱いで。上だけでいい」
 ライターの火を煙草に移しながらの唐突な要求だったが、促されるままにボクはそうした。
両肩からローブを落とすと、少し肌寒さを感じる。
 煙草を一吹かししただけでもみ消した緒方さんは目を眇めてボクの腕や腹に視線を落とした。
「オレのつけた跡がたくさんあるな…。そうされても、まだオレを傍に置きたいのか。それとも
…まだオレに執着している振りをしているのは、進藤にセックスの相手を拒否されたからか?」
「そんなこと……っ」
 ボクが引き止めるために掴んだ緒方さんの指は、今ボクの胸の尖りを摘み、引っぱりあげて
いる。伸びるはずもない乳首は、そうされるとただ痛いだけだ。
「進藤…とは、彼が言うとおりに囲碁を打ちます。それだけでいい。囲碁を通じてボクと彼は
いくらでも分かり合うことができます。相手の何もかもが赤裸々に石の模様に表れる。…それは
身体を繋げることにとても似ているけれど、そこにセックスを持ち込んではいけない――」


(98)

「ふうん。たいした理想だな」
 つまらなさそうに感想を吐き出し、その口にボクの乳首を含んだ。散々弄られたそれは彼の
舌の思いがけない優しさによって反応する。力強くなって、緒方さんの舌の動きに抵抗する
ように成長してしまう。それに緒方さんが歯を立てるのはいつものことで―――
「オレとは囲碁も打つし、セックスもする。キミの言うことは支離滅裂だよ。こんなに真っ赤に
させておいて」
 案の定、上と下の歯で挟まれたそれを、舌でぷるぷると舐め続ける。ボクはこれに弱かった。
声を上げそうになる。
「し…んどうが、見てます……!」
 緒方さんの頭を強引に押し戻しながら、ボクは身体を捻った。
「あ、オレ気にしないから」
「……だそうだ。…全く、進藤の自制心には感心するよ」
 しかし、緒方さんはボクのバスローブを引っぱりあげて肩にかけてくれた。左だけ腫れてし
まった胸を刺激しないよう、ボクはそろそろと羽織る。
「自制心とかじゃなくてさ……。なんか、お腹一杯? 流石に緒方さんの息子君まで見ちゃった
らさー。いや、デカいのデカくないのって」
「どっちなんだ」
「あんなのが塔矢にズンズン入るんだもんなあ」
 ボクは顔を覆った。あのとき、緒方さんと交わっていたとき。
 進藤は呆然と立っていたわけではなかったのか。
「その気になればオマエにも入れてやるが。……安心しろ、オレは上手いぞ」



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