裏失楽園 26 - 30


(26)
 ベッドに座り、ボクは膝に顔を埋めていた。
 目を閉じれば浮かんでくる。はずむ進藤の黄色と、それから。
 緒方さんが楽しそうに笑う声――。
 昨日、ボクを苛んだ彼とは別人のようだった。
 実際にその姿を見ていなくても、彼が目を細めて笑っている姿はすぐに脳裏に浮かんだ。
 冷たささえ感じるほど整った緒方さんの容貌は、微笑むだけでとても優しくなることをボクは知っ
ている。小さかったボクは、ボクの頬を優しく撫でては笑う緒方さんが大好きだったのだから。
 かつて、彼がいつもそうしたように人差し指の背中で頬を撫でてみる。しかし、あのころ感じた
陶酔感はやってこない。
 彼に微笑まれて頬を撫でられると、それだけでとても『愛されている』気がしていたのだ。
 ボクが進藤を抱いたこと、それを緒方さんが(どういう経緯か判らないが)悟り、恐らく進藤も
ボクと緒方さんとのことを知っているということ。そして、緒方さんが進藤を気に入ったらしいと
いうこと――。緒方さんは大人だ。彼が本気になれば、初心で単純な進藤などはひとたまりも
ないだろう。
 いろんな思いが頭の中から溢れてくる。
 こんなときに一人でいたくなどないと心から思った。
 ……だが、こんなときに一緒にいてくれる誰かの存在を、ボクは思い浮かべることが出来なかった。


(27)
 一日おきに、ボクは父の碁会所へ行く。父が中国に行った後も、碁会所のお客さんたちはかわらずに
ここに訪れ、和気藹々と対局を楽しんでいる。ボクは子供の頃から慣れ親しんだ碁会所の雰囲気が
好きだったし、たまに進藤がやってきては対局をすることもあった。
 進藤と碁盤を挟んで対峙する、そのときの興奮は恐らく他のなによりも強い。彼と会うのが気まずい、
緒方さんとのことを聞くのが怖いと思う気持ちよりも、彼がいるかもしれない、早く対局したいという
気持ちの方が遥かに勝り、ボクは学校から直接碁会所へ向かった。
「あら、いらっしゃい。今日は随分と早かったのね」
 ボクがドアを潜ると、いち早くボクに気づいた市河さんがカウンターから出てきてにこにこと笑う。
「学校から直接来たから」
 ボクは軽く頭を振り、鞄を市河さんに手渡した。鞄をいつものようにカウンターの奥の棚に仕舞い、
市河さんはボクの頬に右手でそっと触れる。


(28)
「アキラくん……痩せたんじゃない? ちゃんと食べてる?」
 父が母と一緒に海外へ行き、15歳のボクが一人で生活することを一番心配したのは市河さんだ。
ここで緒方さんに『緒方先生は心配じゃないのっ!?』と食って掛かったこともある。――彼は鼻で
笑っただけだったが。
「食べてますよ、ちゃんとね。――彼、来てるかな?」
 ボクはいつもの指定席に視線を投げた。持ち前の明るさと人懐っこさでここの人たちとすぐに打ち
解けた進藤は、馴染みになったお客さんと多面打ちや対局に興じていることが多かったが、たまには
恐ろしいほどの集中力でボクの席で一人で棋譜を並べていることも度々あった。
 しかし、ボクの指定席にも広間の方にも進藤の姿は見えなかった。
 どうやら、今日は来るつもりではなかったらしい。
 顔を合わせずに済んだという安堵と、期待が外れてしまった失望感で、ボクはハハと笑った。
「来てないみたいだね」
「彼、って進藤くん? 進藤くんならいたけど…、少し遅かったわね。さっき、緒方先生が連れてっ
ちゃったわよ」


(29)
 その後、市河さんとどのような挨拶を交わしたのかも覚えていなかった。
 気がつけばボクは緒方さんのマンションを目指し地下鉄に乗っていた。
 逸る気持ちを抑えながら車両を降り、ボクは階段を上る。
 緒方さんはほとんど車で移動する生活をしているから、地下鉄の駅からの距離はマンションを決める
ポイントにはならないらしい。彼の選ぶマンションはいつも駅から離れた場所にあった。
 ボクが彼の部屋に招かれるときはいつも彼が車で迎えに来てくれていて、帰りも当たり前のように
そうだった。車にあまり強くないボクだけれど、緒方さんの運転に決して酔うことはなかった。
 彼の運転が上手いせいもあるのかもしれないが、何よりも緒方さんと一緒にいられることが嬉し
かったのだ。酔う余裕もないほどに。
「それにしても、何故、進藤なんだ…」
 歩いているうちに、いくつものシナリオがボクの頭の中で浮かび上がっては消える。
 後ろめたい気持ちと、それに勝る期待を抱いて、ボクはいつも彼の棲家へと運ばれていた。
 もしかしたら進藤も同じ気持ちで緒方さんの赤い車に乗ったのではないか――と。そして緒方さんも、
ボクにそうしたように進藤を抱くつもりなのではないか、と。


(30)
 緒方さんの白亜のマンションが見えてくる。
 ボクが覚えているだけでも5回は引っ越しをしている彼は、ここが余程気に入ったのか、3年以上
も前からここに住んでいた。
 ボクが初めて生身の彼に触れて、また彼に触れられたのもここで、ボクがアパートを借りるまでは
このマンションだけがボクたちの逢瀬の場所だった。
 ボクが自活をはじめると、彼はボクの家を突然訪れることが多くなり、ボクがここに攫われることは
なくなったのだが、緒方さんのベッドのシーツの肌触りや、水槽のエアポンプがコポコポという音、
座りごこちのいいソファの硬さを心地良く覚えている。
 緒方さんの香りとともにそれらはボクにひどく馴染んでいた。
 あまり生活感のない緒方さんの安息の棲家――そのエントランスに、ボクはひどく緊張して立った。
 彼から貰った鍵を鞄から取り出す。一度も使ったことのないそれはピカピカに輝いていて、緒方さんは
それを見るたびに『それはアクセサリーじゃないんだがね』と苦笑していた。”いつでもこれで中に入っ
ておいで”――そう言われても、ボクの方にそれを使う勇気はなかった。
 他にもいるだろう情交の相手とここでボクが鉢合わせしたとしても彼はまるで平気かもしれないが、
むしろボクの方が耐えられない。



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