裏失楽園 1 - 5


(1)
 シャワーを浴びて浴室から出てくると、わずかに煙草の匂いがした。
 ボクは素早くパジャマを身につけて自分の部屋へ戻った。玄関のところに見た覚えの
ない革靴が揃えて置いてある。ボクよりも一回りは大きい靴は、緒方さんのものに違いない。
「緒方さん?」
 緒方さんはボクの狭い部屋の真ん中で、銜え煙草のままウロウロと歩き回っていた。
「あ、灰皿ですか?」
 ボクは慌てて戸棚から灰皿を取り出して緒方さんに差し出した。
 緒方さんは目でボクに礼を言い、燃え滓が落ちそうになっていた煙草を無事に灰皿に捻じ込む。
 神経質で綺麗好きな彼は、素足で生活する場所が汚れていることが大嫌いなのだ。だから緒方さんの
部屋は全く生活のニオイが感じられないし、気まぐれに彼が訪れるボクの部屋も自然とそうなった。
「――ここに来るの、久しぶりですね」
「ああ」
 緒方さんはボクの部屋のスペアキーを持っている。ボクが初めて自分の城というものを
持ったときに、緒方さんは当然のような顔をしてボクの鍵束からスペアキーを抜き取った。
 ボクも緒方さんのマンションのスペアキーを一応は持っているけれども、ボクは自分から
彼の部屋を訪ねていく勇気がなかった。
 もしもボクが訪ねて行った時に、別の人の気配を部屋のどこかで感じてしまったら、
多分ボクは酷く傷ついてしまうだろう。そして、その確率がとてつもなく高いことも判っていた。
 緒方さんとボクとは、恋人同士でも何でもないのだから。
 それどころかボクは――。
 彼のジャケットをハンガーに掛けながら目を閉じる。抱きしめるように彼のジャケットに
顔を埋めると、緒方さんが好んでつける香水がボクを包み込んだ。
 緒方さん以外の相手と、ボクは取り返しのつかない過ちを犯してしまっていた。
 ――あの夜から、目を閉じると浮かび上がるのは進藤ヒカルの泣き叫ぶ姿だった。


(2)
 否、ボクはかぶりを振った。あのことは「取り返しのつかない過ち」などではない。
 彼に告げたように、熱に浮かされたようなあの時間を、後悔するつもりはなかった。
 ボクは彼を愛しているし、彼を手に入れるためにどんなことでもするつもりだったのだ。
 …でも、それでも、緒方さんの視線に囚われると動けなくなるボクがいる。
 進藤の狭い中に感嘆しながらも、緒方さんを求めるボクがいるのもまた事実なのだ。
「今朝進藤に会ったよ」
 緒方さんは痩身の彼によく似合う白いスーツを着ている。多分棋院からの帰りなのだろう。
 ネクタイの結び目をゆるめながら緒方さんがボクのベッドに腰を下ろした。
「……そうですか」
 緒方さんはボクが進藤を意識していることを知っていた。だからよく進藤の話を持ち出して
ボクの反応を楽しんでいるようなことがあるのだが…、ボクは震えだしそうになる足を、手を、
無理矢理動かしてハンガーを壁に吊るした。
「カワイソウに、フラフラしてたぜ?」
「………っ!」
 頭上から低い声が降ってくると同時に右手首を掴まれ、ボクは息を呑んだ。
 ――緒方さんは、知ってる。
「どうせキミのことだ、後先考えずガンガン突っ走っていったんだろう。ダメじゃないか」
 ボクを後ろから抱きしめるように立ち、緒方さんは耳元で囁く。相変わらず抑揚のない喋り方で、
ボクは緒方さんがどういう表情をしているのか見当もつかなかった。
 背中を冷たい汗が伝う嫌な感触はいつまでも消えてくれない。
「……オレがキミを抱くように、そんな風にしなきゃな」
 緒方さんの綺麗な形をした左の指が、ゆっくりとボクのパジャマのボタンに伸びてきた。


(3)
「アキラくん、…オレは優しいだろう? ん?」
 片手で器用にボタンを外しながら、耳元で低く緒方さんが笑う。この人の笑い方は独特で、
喉の奥で密やかに笑うような、何か悪いことでも企んでいるような、そんな笑い方をする。
 耳朶を軽く噛まれ、反射的に上がってしまった顎を軽く捉えられた。
「……ア、」
 彼の指で顔を傾けて固定されると、緒方さんの端正な顔が近付いてくる。
 ボクはAの発音のまま、口を僅かに開いた。
 緒方さんはヘビースモーカーだ。愛用の銘柄はラーク。ボクの家ではさすがに吸わないけれど、
それ以外ではひっきりなしに煙草を口に銜えている。だからか、彼のキスは少し苦い。
 彼と唇を合わせる度に舌先をピリピリと刺激されるような感触がした。
 そういえば――ボクはこの間まで、緒方さんのキスしか知らなかった。
 いつもドロドロに溶かされて、何が何だか判らなくなって、訳も無く泣きたくなるような、
そんな切ないキスしか。
 あの夜、強引に何度も触れ合わせた進藤の唇は緒方さんのように薄くなく、やけに柔らかかった。
 何の味もしない他人の唇というのは奇妙な気がして、だからこそ何度も確かめたくなったのだ。
「……?」
 内心首を傾げた。いつまで経っても、緒方さんのキスは落ちてこない。
 ボクは軽く伏せていた瞼を開け、焦点を緒方さんに合わせる。緒方さんも目を開けてボクを
観察していた。色素の薄い彼の瞳が、ボクを責めるように細められる。
「……誰かと比べられるのは、いい気がしないな」
「え……」


(4)
 相変わらず何の感情も篭っていないような声音で緒方さんはそう吐き捨てると、ボクに
背を向けた。青いシャツがよく映える広い背中。少し猫背ぎみなのは、彼の身長があまりにも
高いからだ。
「緒方さ――」
「今度」
 緒方さんのシャツにボクの爪先が触れる寸前、緒方さんはピシリとボクを制した。
 何度も縋ったことのある彼の背中がボクを近づけさせまいとしている。
「今度、3人でするか?」
 言うなり、緒方さんはボクのはだけたパジャマの隙間から肩へと手を滑らせ、それを
床に落とした。濡れた髪が直に首筋を擽る。髪を払いのけたかったけれども、緒方さんが
ボクの両肩をきつく拘束していてそれは適わなかった。
「オレは別に構わないが。キミが進藤に挑みかかっている姿も見物だろうしな」
 ……そんなことを言いながらも、緒方さんはボクが見たこともない怖い顔をしている。
口許は微笑を浮かべているのに、眼鏡の奥にある彼の切れ長の目は少しも笑っていなかった。
「やめて…ください」
 見慣れた緒方さんの整った顔が、白い彫像のように見える。
 得体の知れない恐怖感に、ボクは首を振った。何度も、何度も。
「こんな綺麗な身体で、こんなに細い腰で……、一体、どうやって進藤を抱いたんだ?」
「おがたさん」
 ひんやりとした手のひらが、ボクの身体を撫でるように行き来する。
 ボクの声など聞こえていないのかもしれない。


(5)
「アイツはこの身体のどこに触れた?」
 緒方さんは低い声で囁きながら、ボクの身体のあちこちを確かめるように辿っていく。
「ここか? それとも――ここか?」
「あ……っ」
 時折、どうしても身体が反応してしまうポイントを刺激され、ボクはビクリと肌を震わせた。
 上半身が裸のボクとは対照的に、彼はネクタイの結び目を緩めただけで少しの着衣の乱れもない。
「ここは触られた?」
 彼のボタンに手をかけようとすると、ボクを後ろ向きにして、緒方さんは背後からボクの脇腹を
指先で刺激し始めた。それだけでボクの膝はカクカクと震え出した。
 下から爪先で撫で上げられて、背筋を悪寒にも似た何かが走り抜ける。
 ボクは夢中になって首を振った。
 ――だって、ソコが弱いことを知っているのは、緒方さんだけだ。
 緒方さんが見つけて、緒方さんがそこをもっと敏感にさせた。
 進藤とは、そういうところを見つけ合う余裕さえ生まれなかった。
「……進藤にね、キミがここを弱いことを教えてやったから、きっとこれからは進藤もここを
攻めてくるな。――楽しみだろう?」
 緒方さんは本気なのだろうか。
「嫌、です……っ」
 彼は本気で、ボクを進藤と共有しようとしているのだろうか。
 それとも、進藤をボクと共有しようとしているのだろうか。
「どうして……? キミが望んだんじゃないか」
 彼の低い声はボクの腰の辺りから聞こえてくる。緒方さんは床に跪いて背中にキスを落とした。
脇腹を摩っていた指の代わりに、温かく濡れたものがそこを滑っていく。
 彼の舌が通り過ぎた後は、唾液の冷たさだけが切なく残った。



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