裏失楽園 19 - 20
(19)
「え?」
シャワーの音がうるさくて、ボクは何か聞き間違いをしてしまったのかもしれない。
緒方さんの身体を両手で抱きしめたまま、ボクは首を傾げた。
「――もう、ここには来ない」
緒方さんはボクの髪の毛に手を入れ掻き回しながら、幼い子供に言い聞かせる父親のようにゆっくりと
宣言した。それを認めた瞬間、ボクの視界がすべての色を無くす。
抱きすくめられた時と同じ唐突さで突き放され、ボクはタイルに背中からぶつかった。
「……ボクのこと、嫌いになったんですか?」
「そうじゃない」
激しく降り注ぐシャワーがボクと緒方さんを遮る。緒方さんの表情さえ隠してしまう。
ボクが進藤を抱いたから、だからもうここには来ないなどと彼は言うのだろうか。…それを思うと、
彼のところまで歩いていく気力すら沸いてこない。ボクは自然に震えてしまう身体を抱きしめた。
――どれだけそうしていただろうか。
やがて緒方さんはボクに背を向け、バスルームの扉に手を掛けた。
(20)
「ああ」
バスルームを出て行く寸前に彼は立ち止まり、ボクに視線をやろうともせず一方的に話しかける。
「冷蔵庫の中におみやげが入っている。落ち着いたら食べなさい」
ボクが頷くと、それを見ていたわけでもないだろうが彼は『じゃあ』といつものように別れの言葉を
口にしてバスルームを出ていった。彼の青い背中の残像がいつまでも残っていて、ボクはのろのろと
シャワーの水栓を閉める。あれほど騒々しかったバスルームが途端に静まり返った。
――もう、ここには来ない。モウ ココニハコナイ。
静寂の中、緒方さんの声が何度もリフレインする。ボクの名を優しく呼ぶ、ボクの大好きな声が。
泣き出さないのが不思議だった。
バスルームを出て、ボクは壁に手をついて台所まで歩いた。力の入らない腕で冷蔵庫の重いドアを
開ける。中腰になるのが苦痛で、小さな冷蔵庫の前にペタンと座り込んだ。
ほとんど何も入っていない冷蔵庫。その中にビニール袋が見えた。ボクはそれを取り出し、中を
覗き込んだ。
「―――ハハ―…」
ボクは思わず笑った。
冷蔵庫の中に無造作に転がっていたものは、ふたつのプリンだった。
|