裏失楽園 21 - 25


(21)
 ボクは小さい頃からプリンが大好きだった。彼の分まで食べて怒られたこともある。どうして
それを彼は今頃持ってきたりするのだろう。
 ボクと一緒に食べようと思ったのだろうか。それとも――進藤と一緒に食べろという皮肉を込めて
持ってきたものなのだろうか――。ボクには判りかねた。
 床に座り込んだまま、プリンのふたをぺりぺり破く。スプーンを取りに行くのが面倒で、ボクは
自分の指でプリンを掬って口に運んだ。口の中に甘い香りが広がる。
「……おいしい…」
 気がつかなかったが、どうやらボクは空腹だったらしい。ボクは夢中でプリンを食べた。プリンを
掬う指先が冷たくなることも気にならなかった。
 ――アキラくん、いっぺんに食べちゃったらおなか壊すよ。
 不意に緒方さんの声が蘇る。いつだったか、彼はボクにサラダボウルで作った大きなプリンを
プレゼントしてくれたことがあったのだ。みかんや桃の缶詰めがたくさん詰まったそれは幼かった
ボクの顔よりもずっと大きくて、ボクはスプーンを握り締めていつまでも笑っていた。
「………っ」
 ――熱いものが溢れてきて視界が歪む。両目から零れてボタボタと床に落ちるものが涙だという
ことは、理解していた。


(22)
 ボクは凍えそうになる身体を抱きしめて夜が明けるのを待った。
 ボクが生まれる前から家にいて、ずっと家族のように、そして彼は『愛人』と評したが
ボクにとっては恋人のように、彼はボクの傍にいた。
 『緒方さん』と――ボクは今までに何度口にしただろう。
 彼が去っていった理由をぼんやりとした頭で反芻する。考えなくともその原因は自分―
―進藤と寝た自分――にあることは判っていた。
 緒方さんがボクを抱きながらも、他の人とも平気で付き合える人だということは知って
いる。だから、許されると思っていた。
 進藤を、好きだと思う。……その気持ちが、彼を不機嫌にさせたのかもしれない。彼は
愛だの恋だのいう感情は愚かなものだと思っているに違いないのだから。
 テーブルの上に置かれた赤い煙草の箱が目に入る。彼がいつもそうしていたように取り
出そうとしたが、上手く飛び出してはくれず、不器用に摘み上げて唇で挟んだ。
 火をつける直前に、ボクは我に返った。煙草を箱の中に戻す。
 自分はかなりのヘビースモーカーのくせに、彼はボクが煙草に興味を持つことを許さな
かった。セックスの後の一服は最高だと笑いながらも、ボクには決して吸わせることは
なかったのだ。
「……変な人」
 ボクは笑った。その『変な人』を愛している自分はもっと変なのかもしれないなと。


(23)
 ろくに眠れなかったはずなのに、夜明け前に少しウトウトしてしまい、ボクはいつもの
時間よりもいくらか遅く棋院に到着した。
「もう、返せよッ!」
 棋院のドアをくぐった途端に聞こえてくる進藤の声に、ボクはすぐさま声の主を探した。
 売店の影になっているところに、進藤はいた。よく着ている黄色のトレーナーが鮮やかに動く。
ボクが彼を抱いた影響はあまり身体に残っていないのか、何度か足踏みしたり飛んだりしていて、
とにかくその元気そうな様子にボクは安心した。誰かと話しているような気がするけれど、彼は
よく誰もいないのに大きな声で独り言を言っていることも昔から多かったから、ボクは足を早めて
彼の方向へ歩いていく。
 進藤は、ボクにとって太陽のような存在だった。明るく、いつでも前向きで、そしてとても
素直な性格をしていると思う。そしてそこに――ボクは惹かれた。
 緒方さんと一緒にいると、いつも後ろめたさが付き纏った。『愛人』という肩書きがそうさせた
のかもしれない。進藤の傍にいると、その後ろめたさも消えるような気がしたのだ。
「しんど……」
 進藤の声が聞きたい。笑った顔が見たい。ボクは少し速足になる。 
「進藤、おはよ…」
「ねぇっ、緒方先生ってば!」
 しかし、ついで聞こえてきた進藤の声に、ボクは全ての動きを止めた。


(24)
 今、彼は……何と言っただろう。聞き取れない程の小声ではなかった。ボクは胸に刺すような
痛みを感じて胸を押さえ壁に凭れる。見えるのは右を向いた進藤のトレーナーの端だけになった。
「返して欲しいか? なら、取ってみろ」
「くそ、身長差がどんだけあると思ってんだよ……!」
 進藤の背中がまた撥ねる。どうやら手を伸ばして、緒方さんが持っているなにかを取り返そうと
しているらしい。
「ハハハ、どうせオマエみたいなのは好き嫌いが多いんだろう。だからそんなにチビなんだ」
 壁越しに聞こえてきた緒方さんの声は、明らかに上機嫌だ。最近の彼には珍しく、声をあげて
笑っている。――そうだ。昔の緒方さんは、いつもこんな風に笑っていた。いつからか、あの、
喉の奥で含むような笑いかたをするようになったのだ。
「好き嫌いなんてねぇよ!」
「そうか。…じゃあ、今度メシでも食いに行くか?」
「ホントかよ。…なんかウラありそうだな……」
「バーカ。子供相手にウラもクソもあるか」
 それ以上盗み聞くことなどできなかった。居たたまれなくなって、ボクは壁に沿って歩いてそこ
を離れた。進藤の黄色も、緒方さんの声も遠くなる。
 どうして。何故。ボクの頭にはそんな言葉しか浮かんでこなかった。
 ――緒方さんは、進藤を気に入ったのかもしれない。
 ボクの部屋にもう来ないと言った、その直接の要因である進藤を。


(25)
「――負けました」
 寝不足と極度の疲労がボクの集中力を根こそぎ奪っていたはずだった。
 負けるかもしれない、そう思わなかったといえば嘘になる。しかし、碁盤の前に座った途端に
全ての雑念が消えた。
 誰に対してか判らない苛立ちと、とてつもない不安が気分を昂揚させていたのだと思う。却って
いつもよりも冴えていたような気がする。
「……ありがとうございました」 
 半ば申し訳ないような気持ちで挨拶をし、ボクは棋譜の残らない盤上を改めて見つめた。とても
お父さんには見せられないような模様だった。
 『中押』と記録に書きながら思う。――お父さんが中国に行ってくれていてよかった。
 日頃からあまり会話のある親子ではなかったが、毎朝の対局を通して、父はボクを驚くほど把握
していた。ボクの体調や、それこそ精神状態までも。
 この終局模様を見たら、父はきっと眉を顰めるだろう。そしてボクをひどく心配するに違いない。
 寡黙な父は、父なりにボクを愛している。日本で独りになるボクを案じて、一番弟子を仮の後見
人に据えるほどには。
 父が中国へ行ってしまって2年が経つ。それはそのまま緒方さんとの時間の経過だった。
「お父さんに会いたいな……」
 ぽつりと呟いた言葉が、開いたエレベーターに吸い込まれて消えた。



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