裏失楽園 23 - 24
(23)
ろくに眠れなかったはずなのに、夜明け前に少しウトウトしてしまい、ボクはいつもの
時間よりもいくらか遅く棋院に到着した。
「もう、返せよッ!」
棋院のドアをくぐった途端に聞こえてくる進藤の声に、ボクはすぐさま声の主を探した。
売店の影になっているところに、進藤はいた。よく着ている黄色のトレーナーが鮮やかに動く。
ボクが彼を抱いた影響はあまり身体に残っていないのか、何度か足踏みしたり飛んだりしていて、
とにかくその元気そうな様子にボクは安心した。誰かと話しているような気がするけれど、彼は
よく誰もいないのに大きな声で独り言を言っていることも昔から多かったから、ボクは足を早めて
彼の方向へ歩いていく。
進藤は、ボクにとって太陽のような存在だった。明るく、いつでも前向きで、そしてとても
素直な性格をしていると思う。そしてそこに――ボクは惹かれた。
緒方さんと一緒にいると、いつも後ろめたさが付き纏った。『愛人』という肩書きがそうさせた
のかもしれない。進藤の傍にいると、その後ろめたさも消えるような気がしたのだ。
「しんど……」
進藤の声が聞きたい。笑った顔が見たい。ボクは少し速足になる。
「進藤、おはよ…」
「ねぇっ、緒方先生ってば!」
しかし、ついで聞こえてきた進藤の声に、ボクは全ての動きを止めた。
(24)
今、彼は……何と言っただろう。聞き取れない程の小声ではなかった。ボクは胸に刺すような
痛みを感じて胸を押さえ壁に凭れる。見えるのは右を向いた進藤のトレーナーの端だけになった。
「返して欲しいか? なら、取ってみろ」
「くそ、身長差がどんだけあると思ってんだよ……!」
進藤の背中がまた撥ねる。どうやら手を伸ばして、緒方さんが持っているなにかを取り返そうと
しているらしい。
「ハハハ、どうせオマエみたいなのは好き嫌いが多いんだろう。だからそんなにチビなんだ」
壁越しに聞こえてきた緒方さんの声は、明らかに上機嫌だ。最近の彼には珍しく、声をあげて
笑っている。――そうだ。昔の緒方さんは、いつもこんな風に笑っていた。いつからか、あの、
喉の奥で含むような笑いかたをするようになったのだ。
「好き嫌いなんてねぇよ!」
「そうか。…じゃあ、今度メシでも食いに行くか?」
「ホントかよ。…なんかウラありそうだな……」
「バーカ。子供相手にウラもクソもあるか」
それ以上盗み聞くことなどできなかった。居たたまれなくなって、ボクは壁に沿って歩いてそこ
を離れた。進藤の黄色も、緒方さんの声も遠くなる。
どうして。何故。ボクの頭にはそんな言葉しか浮かんでこなかった。
――緒方さんは、進藤を気に入ったのかもしれない。
ボクの部屋にもう来ないと言った、その直接の要因である進藤を。
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