裏失楽園 24 - 26


(24)
 今、彼は……何と言っただろう。聞き取れない程の小声ではなかった。ボクは胸に刺すような
痛みを感じて胸を押さえ壁に凭れる。見えるのは右を向いた進藤のトレーナーの端だけになった。
「返して欲しいか? なら、取ってみろ」
「くそ、身長差がどんだけあると思ってんだよ……!」
 進藤の背中がまた撥ねる。どうやら手を伸ばして、緒方さんが持っているなにかを取り返そうと
しているらしい。
「ハハハ、どうせオマエみたいなのは好き嫌いが多いんだろう。だからそんなにチビなんだ」
 壁越しに聞こえてきた緒方さんの声は、明らかに上機嫌だ。最近の彼には珍しく、声をあげて
笑っている。――そうだ。昔の緒方さんは、いつもこんな風に笑っていた。いつからか、あの、
喉の奥で含むような笑いかたをするようになったのだ。
「好き嫌いなんてねぇよ!」
「そうか。…じゃあ、今度メシでも食いに行くか?」
「ホントかよ。…なんかウラありそうだな……」
「バーカ。子供相手にウラもクソもあるか」
 それ以上盗み聞くことなどできなかった。居たたまれなくなって、ボクは壁に沿って歩いてそこ
を離れた。進藤の黄色も、緒方さんの声も遠くなる。
 どうして。何故。ボクの頭にはそんな言葉しか浮かんでこなかった。
 ――緒方さんは、進藤を気に入ったのかもしれない。
 ボクの部屋にもう来ないと言った、その直接の要因である進藤を。


(25)
「――負けました」
 寝不足と極度の疲労がボクの集中力を根こそぎ奪っていたはずだった。
 負けるかもしれない、そう思わなかったといえば嘘になる。しかし、碁盤の前に座った途端に
全ての雑念が消えた。
 誰に対してか判らない苛立ちと、とてつもない不安が気分を昂揚させていたのだと思う。却って
いつもよりも冴えていたような気がする。
「……ありがとうございました」 
 半ば申し訳ないような気持ちで挨拶をし、ボクは棋譜の残らない盤上を改めて見つめた。とても
お父さんには見せられないような模様だった。
 『中押』と記録に書きながら思う。――お父さんが中国に行ってくれていてよかった。
 日頃からあまり会話のある親子ではなかったが、毎朝の対局を通して、父はボクを驚くほど把握
していた。ボクの体調や、それこそ精神状態までも。
 この終局模様を見たら、父はきっと眉を顰めるだろう。そしてボクをひどく心配するに違いない。
 寡黙な父は、父なりにボクを愛している。日本で独りになるボクを案じて、一番弟子を仮の後見
人に据えるほどには。
 父が中国へ行ってしまって2年が経つ。それはそのまま緒方さんとの時間の経過だった。
「お父さんに会いたいな……」
 ぽつりと呟いた言葉が、開いたエレベーターに吸い込まれて消えた。


(26)
 ベッドに座り、ボクは膝に顔を埋めていた。
 目を閉じれば浮かんでくる。はずむ進藤の黄色と、それから。
 緒方さんが楽しそうに笑う声――。
 昨日、ボクを苛んだ彼とは別人のようだった。
 実際にその姿を見ていなくても、彼が目を細めて笑っている姿はすぐに脳裏に浮かんだ。
 冷たささえ感じるほど整った緒方さんの容貌は、微笑むだけでとても優しくなることをボクは知っ
ている。小さかったボクは、ボクの頬を優しく撫でては笑う緒方さんが大好きだったのだから。
 かつて、彼がいつもそうしたように人差し指の背中で頬を撫でてみる。しかし、あのころ感じた
陶酔感はやってこない。
 彼に微笑まれて頬を撫でられると、それだけでとても『愛されている』気がしていたのだ。
 ボクが進藤を抱いたこと、それを緒方さんが(どういう経緯か判らないが)悟り、恐らく進藤も
ボクと緒方さんとのことを知っているということ。そして、緒方さんが進藤を気に入ったらしいと
いうこと――。緒方さんは大人だ。彼が本気になれば、初心で単純な進藤などはひとたまりも
ないだろう。
 いろんな思いが頭の中から溢れてくる。
 こんなときに一人でいたくなどないと心から思った。
 ……だが、こんなときに一緒にいてくれる誰かの存在を、ボクは思い浮かべることが出来なかった。



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