裏失楽園 29 - 30


(29)
 その後、市河さんとどのような挨拶を交わしたのかも覚えていなかった。
 気がつけばボクは緒方さんのマンションを目指し地下鉄に乗っていた。
 逸る気持ちを抑えながら車両を降り、ボクは階段を上る。
 緒方さんはほとんど車で移動する生活をしているから、地下鉄の駅からの距離はマンションを決める
ポイントにはならないらしい。彼の選ぶマンションはいつも駅から離れた場所にあった。
 ボクが彼の部屋に招かれるときはいつも彼が車で迎えに来てくれていて、帰りも当たり前のように
そうだった。車にあまり強くないボクだけれど、緒方さんの運転に決して酔うことはなかった。
 彼の運転が上手いせいもあるのかもしれないが、何よりも緒方さんと一緒にいられることが嬉し
かったのだ。酔う余裕もないほどに。
「それにしても、何故、進藤なんだ…」
 歩いているうちに、いくつものシナリオがボクの頭の中で浮かび上がっては消える。
 後ろめたい気持ちと、それに勝る期待を抱いて、ボクはいつも彼の棲家へと運ばれていた。
 もしかしたら進藤も同じ気持ちで緒方さんの赤い車に乗ったのではないか――と。そして緒方さんも、
ボクにそうしたように進藤を抱くつもりなのではないか、と。


(30)
 緒方さんの白亜のマンションが見えてくる。
 ボクが覚えているだけでも5回は引っ越しをしている彼は、ここが余程気に入ったのか、3年以上
も前からここに住んでいた。
 ボクが初めて生身の彼に触れて、また彼に触れられたのもここで、ボクがアパートを借りるまでは
このマンションだけがボクたちの逢瀬の場所だった。
 ボクが自活をはじめると、彼はボクの家を突然訪れることが多くなり、ボクがここに攫われることは
なくなったのだが、緒方さんのベッドのシーツの肌触りや、水槽のエアポンプがコポコポという音、
座りごこちのいいソファの硬さを心地良く覚えている。
 緒方さんの香りとともにそれらはボクにひどく馴染んでいた。
 あまり生活感のない緒方さんの安息の棲家――そのエントランスに、ボクはひどく緊張して立った。
 彼から貰った鍵を鞄から取り出す。一度も使ったことのないそれはピカピカに輝いていて、緒方さんは
それを見るたびに『それはアクセサリーじゃないんだがね』と苦笑していた。”いつでもこれで中に入っ
ておいで”――そう言われても、ボクの方にそれを使う勇気はなかった。
 他にもいるだろう情交の相手とここでボクが鉢合わせしたとしても彼はまるで平気かもしれないが、
むしろボクの方が耐えられない。



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