裏失楽園 31 - 32
(31)
傷つくだろうし、もしかしたら泣いてしまうかもしれない。緒方さんとその人はきっととても似合って
いて、大人で、身体だけの関係というのをきちんと理解しているのだろう。
ボクは会ったこともない人について時々考え、一人で勝手に傷つくことがあった。
愛人という名前に縛られたボクだけがこんなドロドロした気持ちを抱えて、辛くて。
緒方さんはいつでも機能的で、効率的なものを愛していた。
そして、そういうボクは彼にとって重荷になると認識していたから、それは尚更だった。
言うなればこの鍵はお守りのようなものだった。緒方さんがボクを信用しているらしいこと、そしてプラ
イベートに立ち入る許可を与えてくれたことの象徴でもあった。
いつでも逃げ込める場所があるという事実は、両親が傍にいないボクをひどく落ち着かせてくれていた。
何度かの失敗の後、傷一つないお守りを緒方さんがやっていた通りに鍵穴に差し込み、入り口のロックを
解除する。エントランスの奥まったところにあるエレベーターに乗り込みボタンを押すと、すぐに急激な
上昇とそれに伴う耳鳴りがボクを襲い、ボクはボックスの真ん中に立って目を閉じた。
――ボクが今からすることは、最悪の結果を生み出すものなのかもしれない。
(32)
ボクの心の拠り所を全てなくしてしまうかもしれない。
緒方さんと進藤の2人を同時に無くすということは、そういうことだ。
速足で歩きながらも、彼らが一緒にいるところを確認して一体何をしたいのか、ボクは判りかねていた。
だが、とボクは思う。
ボクの本能に近しい部分が『緒方さんのマンションに行け』と命じている。かつて進藤を追いかけ、
彼の中学校まで赴いたときのように。あるいは、緒方さんを探して彼の馴染みの店に足を踏み入れた
ときのように。
――だから、行かなければならない。
棋院のエレベーターとは違い、緒方さんの住むマンションのそれは止まるときの衝撃を少しも感じない。
それは彼が選択して維持し続けている生活水準の高さを思わせた。
ボクはまっすぐと伸びた廊下を彼の部屋まで突き進んでいく。
緒方さんはフロアの一番奥まったところに住んでいる。三方から降り注ぐ陽だまりの中で、一日中彼と
ボクは裸で過ごしていたこともあった。たくさんキスをして、たくさん触れて――そして、空腹を感じた
らシーツを巻き付けて食事をし、眠くなったら2人で眠る。そして、その翌日は一日中対局して過ごした。
ボクにとっての最高の贅沢が彼の部屋には在ったのだ。
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