裏失楽園 33 - 35


(33)
 彼の家の前に立ったが、さすがに無断でドアを開けることには抵抗があった。
 ――いつでもこれで中に入っておいで。でも、先生には教えちゃ駄目だよ。
 しかし、ここまで来たからには後に退けない。以前緒方さんに囁かれた言葉を免罪符にして、
ボクは深く深呼吸をした。
 ドアノブを回し、彼の城に入る。玄関には案の定、緒方さんの磨き抜かれた革靴と、見覚えの
ある派手なラバーソールのスニーカーが並べて置いてあった。進藤はとても小柄で、いつもこん
な感じの底の厚い靴を履いていたが、それでもボクよりも随分小さかった。
 進藤を抱きしめると、腕の中にすっぽりと入ってしまう。彼を抱きしめたことは数えるほどしか
なかったが、緒方さんもお父さんもボクよりがっしりとしていたから、それは不思議な感覚だった。
 お邪魔しますと心の中で呟き、靴を脱いでフローリングの広い廊下をリビングへと向かう。
「あ…」
 リビングを覗いたところで思わず声が出て、ボクは咄嗟に口を押さえた。
 ボクが最高の贅沢を感じたあの空間は、ボクの記憶にあるそれとまるで様子が違っていた。
 テーブルもソファもカーテンも、家具の大半が新しくなっている。
 ボクがここに来なくなってから、まだ3ヶ月くらいしか経っていない。彼はよく部屋の模様替えを
する人ではあったけど――それでも。
 ボクの大切な記憶が、音を立てて崩れていく。
 そんな気がした。


(34)
 彼と何度も過ごしたベッドルームが近付いてくる。
 外国人の家族連れが多く暮らしているこのマンションは、一人暮らしにしては広すぎる作りになって
いる。ボクは詳しくは知らなかったが、芦原さんや天野さんが感心したように口にしていた。
 ――緒方先生、結婚するんじゃないの?
 彼がこの広いマンションに越したことを知り、天野さんがボクにそう問い掛けてきたことがあった。
 ボクは泣き出したい気持ちを抑えて、適当な返事――『判りません』か『知りません』か――をした
ような気がする。そのころには既に、ボクは彼に誰にも言えない感情を抱いていた。
 傍目から見て、緒方さんはボクに心を許しているように見えたのだろう。確かに彼はいつでもボクに
優しかった。ボクの髪を撫で、”昔のクセが抜けない”と笑いながら手の甲で頬を撫でることもあった。
その度に緊張でガチガチになってしまうボクを微笑んで見つめながら――、緒方さんの心はいつもボク
を通り越して、別のものを見ていた。
 お父さんかもしれない、saiかもしれない。彼の心を常に捉えているものは、まだボクが辿り着け
ないでいる囲碁の頂点に近しい人物とその手筋に違いなかった。
 細長い廊下を歩きながら思う。
 ボクと緒方さんはよく似ている。人生のあらゆるところで、囲碁の存在が大きく幅を利かせている。
 だが――、ボクは彼のことを完全に信じきれてはいないのだ。


(35)
 進藤と緒方さんがいる寝室の前で立ち止まり、ボクは今更のように迷っていた。
 2人が抱き合う姿を見て、そして……ボクは何をする?
 ボクは進藤を助けようと思っていた。進藤は――ボクが言えた義理ではないが、明るい太陽が似合う。
彼にはまっすぐ日向を歩いていってほしいのだ。
 触れるとひんやりと冷たいドアノブを下ろし、寝室のドアを少しだけ開ける。
 ほんの少しの隙間からは、予想していた進藤の微かな声も、湿った空気の澱みも、あの独特な匂いも
感じられなかった。
「………?」
 ボクは更にドアを開き、やがて視界に飛び込んできたボクの知らないベッドの存在に息を呑んだ。
 見たこともないような大きさのベッドが、部屋の真ん中で存在を主張している。
「ああ、シャワー済んだのか。オレのだからデカイだろう? すまんがそれで我慢しててくれ」
 ドアの死角にいたのだろう、聞きなれた緒方さんの声が近付いてきた。ボクはどうすることもできず、
ドアノブをぎゅっと掴んで身体を縮こませることしかできない。
「…………」
「進藤? 遠慮せず入ってきたらどうだ」
 ぐいと強い力でドアが引かれ、ボクの身体はあっさりと彼の前に曝された。
 緒方さんの切れ長の目が、驚いたように見開かれる。
「アキラくん――」



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