裏失楽園 51 - 55


(51)
「冷たいが、我慢しろ」
 緒方さんは進藤に向かって一方的に言い放つと、進藤の股間に左手を擦り付けた。行為そのもの
は隠れて見えなかったが、時折ピチャ…という水を使う音が聞こえてくる。
「やだ……っ」
 この間のときの衝撃がまだ記憶に鮮明に残っているのだろう、進藤は自由になった肘で必死に
ベッドの空間へと動いた。それは少しボクとの距離を縮めることになり、ボクは慌てて彼に手を
伸ばした。触れた進藤の身体は、湿っていて熱かった。
「――進藤!」
 ベッドに乗り上げて進藤の上半身を抱き、ボクは精一杯の力で彼を緒方さんの下から引っぱり
出す。彼と至近距離まで近づくと、彼が放ったもののあの匂いが強く香って、ボクはそこから
目を離せなくなった。緒方さんが直接触れて、一方的に昂めさせた結果が飛び散っている。
ボクよりも遥かに健康的な色をした肌と、白い体液のコントラストが、まるで初めて見る淫靡な
もののように思えた。
「…アキラくん、手を放しなさい。進藤を抱かないと、オレはキミを抱けない」
 緒方さんは汚れていない右手で前髪を掻き上げ、進藤を抱きしめたままのボクを見上げる。
 緒方さんの色素の薄い瞳は、揺るぐことなくボクを映していた。


(52)
「塔、矢…」
 進藤がボクのシャツをぎゅっと掴み、小さな声でボクの名を呼ぶ。その手は震えており、肌は
粟立っていた。これは寒さのせいではないのだろう。
 進藤を彼の目にこれ以上触れさせたくはなかった。ボクはくしゃくしゃに丸まって棄てられて
いた緒方さんのバスローブを手繰り寄せて、進藤の身体に掛ける。ボクの行動を止めることもな
く眺めていた緒方さんは、深く溜息を吐くと起き上がり、その場で胡座をかいた。
 白いスラックスから取り出されたままの赤黒い緒方さんの局部は、まだ一度も達していないせ
いか十分すぎるほど撓り、時折青いシャツをピタピタと弾いていた。
 そして緒方さんはそれをズボンの中に仕舞おうとも、シーツで隠そうともしない。
「言わなかったか? オレは独占欲が強いと。キミは進藤とセックスした。オレが知っている今
までのキミとは違う――」
 進藤がゆっくりと身体を起こす。ボクは極力その身体を観ないようにして、バスローブをかけた。
 緒方さんはまた溜息を吐き、両手で自分の額に落ちる薄い色の前髪を掻き上げる。
「この間キミを抱いて、痛感した。誰にも触らせたことのない、オレだけの宝物を誰かに泥塗れ
の手でベタベタと触られたような気がしたよ」


(53)
 違う。そうじゃない。
 緒方さんは思い違いをしている。ボクはかぶりを振った。
 ボクが受動的に触られたわけではない。ボクの方が彼を欲し、そしてボクから彼を求めたのだ。
――大体、ボクが緒方さんの『宝物』なはずがない。数多くいるだろう彼の愛人の一人、せいぜ
いがお気に入りの玩具だろう。
 彼が独占欲の強い人だということは何となく判っていた。熱帯魚を好んで飼っているのもそう
だ。彼らは緒方さんの用意した狭い世界の中でしか生きられない。緒方さんの思惑一つで、その
棲家は楽園にも地獄にもなり得る。そういうところが彼は好きなのだろう。
 そして、ボクが緒方さんを完全には信じられないのと同様、彼もボクのことを信じきれてはい
ない。お気に入りのペットが、自分のいないところで他人に尻尾を振って甘えている――そうい
うシチュエーションを彼は決して許そうとはしないのだ。そのペットが最終的に還ってくるのは、
飼い主たる自分なのに。
 もしかしたら緒方さんは自分自身のことさえも信じられないのかもしれない。
「……緒方さん」
「これからキミを抱くたびに第三者の気配を感じるだろう。よりによってキミが求めた――こんな
ガキを。その違和感をなくすためにはどうすればいいか――キミなら判るだろう?」


(54)
 こんなガキ、と進藤を強く睨み付けると、緒方さんは視線を逸らして壁に設えてある熱帯魚の
水槽に視線を遣った。つられてボクも後ろを向くと、アロワナがゆっくりと身体を反転させる
のが見えた。
 あの魚にすら、個体を判別するためのチップが体内に埋め込まれていると聞いたことがある。
 それは緒方さんにではなくて、いつか緒方さんを探して彼の馴染みの店まで出かけたときに、
そこの店員から聞いたことだったが。
 ――魚が、ただの魚であることも許されていないのだなとボクは少し切なく思った。
 緒方さんは、ボクとこれからも抱き合うため、ボクに触れるために、進藤を抱こうとしている
と言う。ボクの身体の中に残っているという違和感のせいで。
 しかし、仮に彼が進藤を抱いたとして、それでボクの中にある違和感が消えるわけではない
だろう。ボクはボクでしか有り得ず、進藤と交わったからといってボクが他のものになるはずが
ないのだから。
 それが事実ならボクは緒方さんに何度も違和感を感じなければ不自然で、そしてその度にボク
は相手の人を何人もこの手に抱かなければならなくなる。
 そういうことをぼうっと考えて、ボクは溜息を吐いた。
 そんなの――イタチゴッコもいいところだ。


(55)
 ベッドの上で不器用にバスローブを身に付けていた進藤はベッドの縁に腰掛けると、フラつき
ながらもボクの隣に立った。
「大丈夫か? 進藤」
「ウン」
 進藤は頷きながらバスローブの皺を伸ばすと、胸元がはだけないように襟元を詰めて羽織り、
改めてきっちりと紐を巻いた。
「緒方先生」
 進藤は緒方さんにまっすぐと向き合い、しっかりとした声を出した。その声の強さに、ボク
は安心する。……やはり、彼は強い。
「……でも、それは先生の事情だろ? そんな自分勝手な理由でオレを巻き込むなよ……!」
 緒方さんは何も言わない。薄茶の瞳が、眼鏡をかけていないせいか少し潤んだように見えた。
「ね、緒方さん。…違和感を感じるなんて、ウソでしょう?」
 ボクは緒方さんの髪に手をかけ、染めているわけでもないのにボクの髪の色とまるで違う色を
した彼の髪を掻き上げた。
 緒方さんの秀でた額、苦悩を滲ませる眉間の皺、少しだけ指先を刺激する髭の感触――そう
いうものに触れると、ボクは不思議な気持ちになった。



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