裏失楽園 90 - 92
(90)
ドアの前に立ち、外界とこの部屋を隔てるそれを開けるか否かを逡巡していると、緒方
さんはクローゼットへの扉を開け、ボクがかつてこの部屋でよく使っていたバスローブを
手にして戻ってきた。
この部屋を訪れなくなってもう大分経つが、それが処分されていなかったことに、ボク
はただ安堵する。
広げた薄いブルーのそれを優しく肩にかけられる。ひどく肌触りの良いそれが、この閉
ざされた部屋の中で繰り広げられたボクと緒方さんの時間の全てと、ボクが小さなときか
ら使っているタオルケットの感触をふと思い出させた。それらが連れてくるあらゆる懐か
しさにボクは訳もなく泣きたくなったが、それを堪えて頬をこすりつける。
「これ…捨ててなかったんですね」
「捨てる理由がないだろう」
――口元を僅かに歪めて、緒方さんは吐き捨てるような乱暴な口調でつぶやく。
「自分で始末できなかったら我慢せずに呼びなさい」
一度ボクの肩を力を込めて掴んだ緒方さんは、不意にボクの肩を突き放すようにして離
れた。スティールのドアノブを押し下げてドアを開きながら、目顔でボクに立ち上がるよ
う、指示を与える。
「緒方さんは?」
「オレか? オレは――」
眼鏡のレンズ越しに対峙していた緒方さんの視線が僅かにボクから逸れた。ボクから顔
を逸らせた緒方さんは、完璧な横顔を俯かせてその表情を隠す。
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「――進藤と話をする」
「話? …ですか…」
進藤と緒方さんを二人きりにさせたくはなかった。進藤はともかくとして緒方さんは、
ボクとのこと以前に進藤に興味を持っている。緒方さんは否定するかもしれないけれど、
他ならないボクだからこそ解るのだ。
ボクと緒方さんは、根本的なところでとてもよく似ていた。
…そんなボクの顔色を読んだのか、緒方さんはフッと苦笑し、「心配するな、妙なこと
は言わん」とボクの髪を撫でる。もっと撫でて欲しい――そう思う間もなく、彼は身を
翻してドアの向こうに消えた。
緒方さんがいなくなると、水槽のエアレーションの音以外には何も聞こえなくなる。
ホテルにあるような広いベッドに手を突いて、ボクは立ち上がった。
この閉ざされた空間から出るためのドアノブに手を掛けて、改めてこの部屋を振り返っ
た。ベッドも、フットライトも、サイドボードも。何度見回しても同じだ。この部屋の
調度品は以前と同じものを探すのが不可能なほど、何もかもが変わってしまっていた。
――このバスローブから立ち上る、ほのかな香りだけは変わっていないというのに。
(92)
低めの温度に設定したはずだったのに、お湯があたるたびに肌にピリっと痛みが走る。
この鋭い痛みには覚えがあった。見てみると膝や肘は動かされている最中にシーツで擦って
しまったのか赤くなっている。擦過傷だ。
ジンジンとした痛みはそこを中心にして生まれてくるようだった。
温度調節の仕方などとっくに忘れていると思っていたのに、まだこの指は覚えている。
そのことに妙な感慨を覚えながら、ボクはさらにシャワーの温度を低く調整し、身体に残る
倦怠感と汚れを洗い流した。しかし、身体に染み付いたような濃い匂いはどうやっても洗い
流すことはできず――ボクは幾分躊躇いながらも、白い陶器に入ったボディソープを手に取る。
緒方さんの愛用しているボディソープの香りは気に入っていたが、いくらスポンジで泡立て
ても傷に良くないことは明らかだったが、それでも。
「……っ、」
案の定、石鹸の刺激のせいでより強くなってしまった痛みがボクを苛む。
スポンジなど使えなかった。ボクは泡をすくっては両手で肌を撫でることを繰り返すしかでき
ず、刺激を与えないように気をつけながらそろそろと肌を撫でる。
お湯を身体にかけて泡を落としていると、ボトリと足元に白い塊が落ちてきた。ボクの後ろを
塞いでいたティッシュペーパーが、水分を含んだ自らの重さに耐えかねて落ちたのだ。
後ろが気にならないといえば嘘になる。…緒方さんを受け入れていた場所は、ほとんどの
感覚が消えていて、ティッシュペーパーが全て落ちたのか、それとも中にまだ在るのかさえも
よく判らなかった。そして、彼が奥深くに残しただろう残滓も。
彼が中で出すことを良しとする人ではなかったから、ボクは自分で後始末をするといった経験が
ほとんどない。汚されても、彼に全てをゆだねておけばそれでよかった。
しかし、今日は進藤がいる。進藤の前で、緒方さんを呼ぶわけにはいかなかった。
ボクは覚悟を決めてそっと右手を後ろへ滑らせる。
彼が中に入っていたところを、汚いとは思えなかった。
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