裏失楽園 91 - 95
(91)
「――進藤と話をする」
「話? …ですか…」
進藤と緒方さんを二人きりにさせたくはなかった。進藤はともかくとして緒方さんは、
ボクとのこと以前に進藤に興味を持っている。緒方さんは否定するかもしれないけれど、
他ならないボクだからこそ解るのだ。
ボクと緒方さんは、根本的なところでとてもよく似ていた。
…そんなボクの顔色を読んだのか、緒方さんはフッと苦笑し、「心配するな、妙なこと
は言わん」とボクの髪を撫でる。もっと撫でて欲しい――そう思う間もなく、彼は身を
翻してドアの向こうに消えた。
緒方さんがいなくなると、水槽のエアレーションの音以外には何も聞こえなくなる。
ホテルにあるような広いベッドに手を突いて、ボクは立ち上がった。
この閉ざされた空間から出るためのドアノブに手を掛けて、改めてこの部屋を振り返っ
た。ベッドも、フットライトも、サイドボードも。何度見回しても同じだ。この部屋の
調度品は以前と同じものを探すのが不可能なほど、何もかもが変わってしまっていた。
――このバスローブから立ち上る、ほのかな香りだけは変わっていないというのに。
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低めの温度に設定したはずだったのに、お湯があたるたびに肌にピリっと痛みが走る。
この鋭い痛みには覚えがあった。見てみると膝や肘は動かされている最中にシーツで擦って
しまったのか赤くなっている。擦過傷だ。
ジンジンとした痛みはそこを中心にして生まれてくるようだった。
温度調節の仕方などとっくに忘れていると思っていたのに、まだこの指は覚えている。
そのことに妙な感慨を覚えながら、ボクはさらにシャワーの温度を低く調整し、身体に残る
倦怠感と汚れを洗い流した。しかし、身体に染み付いたような濃い匂いはどうやっても洗い
流すことはできず――ボクは幾分躊躇いながらも、白い陶器に入ったボディソープを手に取る。
緒方さんの愛用しているボディソープの香りは気に入っていたが、いくらスポンジで泡立て
ても傷に良くないことは明らかだったが、それでも。
「……っ、」
案の定、石鹸の刺激のせいでより強くなってしまった痛みがボクを苛む。
スポンジなど使えなかった。ボクは泡をすくっては両手で肌を撫でることを繰り返すしかでき
ず、刺激を与えないように気をつけながらそろそろと肌を撫でる。
お湯を身体にかけて泡を落としていると、ボトリと足元に白い塊が落ちてきた。ボクの後ろを
塞いでいたティッシュペーパーが、水分を含んだ自らの重さに耐えかねて落ちたのだ。
後ろが気にならないといえば嘘になる。…緒方さんを受け入れていた場所は、ほとんどの
感覚が消えていて、ティッシュペーパーが全て落ちたのか、それとも中にまだ在るのかさえも
よく判らなかった。そして、彼が奥深くに残しただろう残滓も。
彼が中で出すことを良しとする人ではなかったから、ボクは自分で後始末をするといった経験が
ほとんどない。汚されても、彼に全てをゆだねておけばそれでよかった。
しかし、今日は進藤がいる。進藤の前で、緒方さんを呼ぶわけにはいかなかった。
ボクは覚悟を決めてそっと右手を後ろへ滑らせる。
彼が中に入っていたところを、汚いとは思えなかった。
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バスタブに片足を乗せ屈みこんで、ボクは右手の人差し指を自分の身体の内部に深く差し
込んだ。自分でも判るほど熱を持った入り口は事務的に爪先を少し上下させるだけで指を
飲み込み、掻き回すとその容易さに呆気にとられる間もなくトロリとしたものが下る。
彼が放ったものがどのくらいの量なのかは判らないが、念のためにとシャワーヘッドを
取り指で拓いた下腹部に湯を注いだ。ピクピクと口が開くたびにぬるい湯が入り込み、ややも
せずお腹が下から満たされるような奇妙な感覚が生まれる。それを目を閉じてやり過ごし、
衝動に任せて身体の力を抜いた。足元まで伝う生ぬるいものが何なのか――どうやって、
どんなシチュエーションでボクの体内にそれが入ったのか、そのときに同じマンションに誰が
いたのか――考えるだけで足が震える。
その時、不意に視線を感じたような気がしてボクは顔を上げた。
その視線の主は、恐らくバスルームの壁を半分埋め尽くす鏡からのものだった。
白と金を基調としたバスルームの中でも一際異彩を放つ、悪趣味なほど大きな鏡は以前から
あるものだったが、緒方さんはこれを殊更気に入っていた。
ボクを後ろから抱きすくめながら、あるいはボクの両手をその鏡に縋りつかせながら、彼は
ボクをゆっくりと苛んだ。そしてボクはいつも…生身の緒方さんと鏡の中の緒方さんに抱かれて
いるような、そんな感覚に酩酊した。バスルームに反響する声を抑えるどころか愉しんでいた。
ボクがここに入ったときは進藤の名残で曇っていたが、ボクが浴びたシャワーの飛沫が曇りを
なくしている。ボクが動くたびに鏡に映るボクも同じように動き、それが目の端に映っていたの
だろう。今も、はしたない格好のボクを映している。
一人でシャワーを浴び、後始末をしただけで興奮しはじめているボクを。
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ボクは興奮しかけていたそれを両手で掴んだ。抑えるつもりで掴んだのに、浅ましいボクは
その刺激にすら悦びの咆哮をあげる。
身体の欲求と理性は別物だ。セックスの後、ボクの理性は容易に本能に凌駕されてしまう。
それが今日のような行為だと尚更だった。数度撫で上げると、立っていられなくなりボクは
しゃがみ込んだ。
震える手でシャワーの温度を下げると、デジタル制御の水温はすぐに調節された。
真水に近い温度のそれが全身を濡らすと火照った身体は余計に温度差を感じる。
「つめた……」
あまりの冷たさに一瞬息が止まり、ボクは震え始めた身体を両手で抱いた。
震えながら、ボク一人の空間であるこの箱庭から出る潮時なのかもしれないと思う。
だが、外に出たくはなかった。バスルームを出れば進藤や緒方さんと顔を合わせなければ
ならない。それが辛かった。
しかし――いつまでもこうしているわけにはいかない。あまりに遅いと却って心配をかけて
しまう。それに、あの二人を長く二人きりにさせるわけにはいかないのだ。
温度の高い湯ならば夏の日の蜃気楼のように立ち上がってきてボクをいたずらに刺激する
はずのあの匂いが、すっかり水に流されて消えていったことに安堵しながら、排水溝のとこ
ろに溜まったティッシュの残骸をかき集めてきつく握りしめる。
決意が挫ける前に早く出なければ。
バスローブを羽織り、気が進まない足を叱咤しながら長い廊下を歩いた。
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リビングからボソボソと聞こえてくる声はけして剣呑なものではなかった。進藤の少し
高めの声は直接耳に届き、緒方さんの低い声は壁に突いた手から振動として伝わってくる。
緒方さんのマンションは一人暮らしにしては広すぎるほどのものだが、それでも廊下の
長さはたかが知れていて、ボクはいくらもしないうちにリビングの入り口に差し掛かった。
開け放たれたドアのそばで、中に入ろうかどうしようかとまだうだうだ入り口で迷って
いると、進藤に名前を呼ばれてしまった。
「塔矢、何してんだよ。こっち入ってこいよ」
――ああ、いつもの声だ。ボクは彼の笑いを含んだ声音に眩暈すら覚えた。
あんなことがあったのに、あんな醜態を見せてしまったのに、どうして進藤は変わらな
いでいられるのだろう。ボクが彼を抱く前と、抱いた後と、そして今と。
進藤が鈍感なわけでは決してないのだ。むしろ彼は繊細な危うささえ持ち合わせている。
しかし、彼はどのような苦境に立たされても、決して諦めたりなどしないことをボクは知っ
ていた。普段は細やかな手を打つくせに、時に驚くほど大胆になる。
それと同じで、ボクという汚れた存在をも赦してしまえるほどの大らかさが彼の根底には
あるのかもしれなかった。
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