裏失楽園 95 - 96
(95)
リビングからボソボソと聞こえてくる声はけして剣呑なものではなかった。進藤の少し
高めの声は直接耳に届き、緒方さんの低い声は壁に突いた手から振動として伝わってくる。
緒方さんのマンションは一人暮らしにしては広すぎるほどのものだが、それでも廊下の
長さはたかが知れていて、ボクはいくらもしないうちにリビングの入り口に差し掛かった。
開け放たれたドアのそばで、中に入ろうかどうしようかとまだうだうだ入り口で迷って
いると、進藤に名前を呼ばれてしまった。
「塔矢、何してんだよ。こっち入ってこいよ」
――ああ、いつもの声だ。ボクは彼の笑いを含んだ声音に眩暈すら覚えた。
あんなことがあったのに、あんな醜態を見せてしまったのに、どうして進藤は変わらな
いでいられるのだろう。ボクが彼を抱く前と、抱いた後と、そして今と。
進藤が鈍感なわけでは決してないのだ。むしろ彼は繊細な危うささえ持ち合わせている。
しかし、彼はどのような苦境に立たされても、決して諦めたりなどしないことをボクは知っ
ていた。普段は細やかな手を打つくせに、時に驚くほど大胆になる。
それと同じで、ボクという汚れた存在をも赦してしまえるほどの大らかさが彼の根底には
あるのかもしれなかった。
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進藤ヒカルという棋士のことを誰よりも理解しているのはボクだ。
しかし、進藤と言葉を交わし、また何度となく対局してその結果得られた彼の人となりを
まだ完全には把握しきれていないのだろう。
彼は確かに繊細だが、ボクが思っていたよりもはるかに進藤の精神は強靭だった。
「長く出てこないから、倒れてるんじゃないかと心配してたんだぞ」
進藤の声にかぶるように、緒方さんが『アキラくん』とボクを呼んだ。いつもの冷徹な
響きをもつ彼の冷たく低い声は、その胸中が穏やかなのかそうでないのかすらもボクに悟
らせてくれない。
彼の瞳から真意を探ろうとしたが、眼鏡のレンズに阻まれてそれも叶わなかった。
立ち上がった緒方さんは溜息とともに近づいてくる。そしてボクの髪に指を絡ませた。
「髪がまだ濡れてる。早くここに来て髪を拭きなさい。……私がいるから入ってこられない
のなら、私が出て行くが」
「緒方センセ、何かっこつけて”私”とか言ってんの?」
進藤は笑っていたが、ボクにとっては笑い事ではなかった。足が竦んで動けない。
緒方さんが自分を『オレ』ではなく『私』と称すこと。
――それは相手にある程度の距離を置いたということを指していた。
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